イザヤ書50:4-11
神に従う者
僕の歌:第一の「主のしもべの歌」(42:1~9) 歌い手は「主」。
第二の「主のしもべの歌」(49:1~13) 歌い手は1~6節は「主のしもべ」、
7~12節は「主」、13節は「預言者イザヤ」。
第三の「主のしもべの歌」(50:1~11) 歌い手は1~3節は「主」、
4~11節は「預言者イザヤ」。
第四の「主のしもべの歌」(52:13~53:12) 歌い手は52章13~15節は「主」、
53章1~12節は「預言者イザヤ」。
参考 イザヤ『50:1 主はこう言われる。お前たちの母親を追い出したときの/わたしの離縁状はどれか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰か。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され/お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ。50:2 何故、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。わたしの手は短すぎて贖うことができず/わたしには救い出す力がないというのか。見よ、わたしが叱咤すれば海は干上がり/大河も荒れ野に変わる。水は涸れ、魚は異臭を放ち/渇きのために死ぬ。50:3 わたしは、天に喪服をまとわせ、粗布で覆う。』
1.神様の嘆き
イスラエルは、バビロンに捕囚されたことを神様のせいにしてしていました。ちょうど、夫が離婚を宣言したり、借金のために子どもを売り渡すように、神様がイスラエルを見捨てたと嘆いたわけです。
それに対して神様は、反論しています。神様が彼らに離婚を宣言したのなら、その離婚状はどこにあるのか、もし彼らを借金のかたに売り渡したのなら、その債権者はだれなのかを告げよ、というわけです。神様はそのようなことは絶対にしません。神様は、このように宣言します。
『お前たちの罪によってお前たちは売り渡され/お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ。』
イスラエルの民は、神様への責任転嫁であることに気がつかなければなりません。
『50:2 何故、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。』
神様は、これまでに何度も何度も預言者たちを遣わして、警告してきました。にもかかわらず、彼らはだれも答えようとしませんでした。なぜでしょうか?それは神様の手が短くて救えなかったからではありません。
それはイスラエルの民に信仰がなかったからです。いくら警告しても、彼らは神様の言葉を聞こうとしませんでした。決して神様の力が足りなかったわけではありません。
2.わたし
この章で注目すべき所は、「わたし」と語る「しもべ」の存在です。この「わたし」という存在がなぜ「しもべ」を指すかというと、『50:10 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。』とあるからです。イザヤ書ですから、基本イザヤが語るか、神様の言葉を伝えるかのどちらかです。苦難を受ける「わたし」は、神様のしもべであるイエス様の事であります。
3.従順なしもべ
イエス様は、神様から弟子の舌を与えられました。弟子の舌とは「教えを受けた者」であり、その教えを語る口となります。舌は語ること、耳は聞くことを表しています。もちろん聞くというのは単に聞くというだけでなく、聞き従うことも含まれています。
しもべは大胆に神様の言葉を伝え、そして迫害や恥辱を受けることになっています。それを知りながら、神様のしもべは、躊躇することなく、決意をもって従います。
6節には、自発的に自ら進んで忍耐をもって苦難を受けるしもべの姿があります。「髭を抜かれる」とは屈辱と侮辱を意味します。このような最低の侮辱は、いかなる人間といえども甘受することは出来ません。しかし、まさにメシアこそが恥辱的な苦難を自ら受けられるのです。
神様のしもべは、神様の助けが保証されています。そして、恥辱と屈辱の中にあっても耐えるのです。「顔を火打石のようにし」とは、堅い石のようにひるまない姿を指します。旧約聖書で「恥を見る」という表現は、失望落胆することを意味します。それがここでは否定されています。つまり、主に従うなら、決して失望させられることがないのだというという意味です。
『50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。』
この言葉は、イエス様が神様に従順であるがために勝利することを宣言したものです。
イザヤは、このイエス様の従順さをたたえます。また、「お前たち」つまり、神様を信じる者たちに向けて、この神様のしもべであるイエス様と同じように、従順に神様に従うことを薦めるのです。