ルカ2:41-52

 少年イエス2


 12歳の少年イエスの記事は、ルカ独自のものです。イエス様が誕生後から公生涯に入る30歳までについて、この記事以外に情報はありません。しかし、ルカはこのひとつの出来事を取り上げることで、イエス様の生き方の萌芽を見せてくれています。

 ユダヤ人は13歳で成人式を迎えます。その1年前のイエス様の姿が人々の目に、あるいは、両親の目にどのように写ったのかを、この箇所は示しています。


1.イエス様に対する二つの「驚き」

 ルカ2章47、48節には、イエスに対する二つの「驚き」が記されてます。一つは、イエス様が律法学者たちと問答している様子を見た人々の「驚き」です。もう一つは、イエス様の両親が同じ様子を見た時の「驚き」です。イエス様の賢い受け答えに人々が驚いたわけですが、イエス様の両親の場合は、異なった「驚き」でありました。新共同訳の聖書ではその違いが分かりませんが、そもそもが使われている言葉が違うのです。

 イエス様の賢い受け答えに、人々は「感心した」というニュアンスでありますし、、両親は「あきれた」とのニュアンスがあると思われます。

47節「エクシステーミ」(εξιστημι):甚だしく驚く、驚きに打たれる、驚愕する、気が狂う。

48節「エクプレーッソー」 (εκπλησσω):打ちのめし、追い払い、追放する。

(突然のショックで自分の感覚から追い出され、)驚き、驚かされる。

                          欲望に打たれること。おびえさせる。


2.イエス様の生涯の秘密

 イエス様は「知恵に満ちて」成長しました。12歳の少年としてみたとき、その成長ぶりが年相応でなく、律法学者と問答が出来るほどだったので、人々は驚きをもって見たのです。その「驚き」はやがて、イエスが公生涯に入って教えだすと、このように言われます。


マルコ『6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。』

 12歳の少年イエスの姿を見た人々の尋常でない驚きは、公生涯に入ったイエス様の「教え」に人々が驚いたことを彷彿させるものでした。

 一方で、イエス様の両親の「驚き」は、勝手にとんでもない事をやっている息子の姿にあきれて、叱ったものです。そのあきれ加減は、母親の叱責を込めた言葉からわかります。


『「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」』


 イエス様は、それに答えますが、会話がかみ合っていません。


『「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」』

 このことばを両親は全く理解することができませんでした。こうしたすれ違いは、やがて弟子たちに対しても、民衆に対しても起こります。そのような空気が、すでにこの場面で見られます。また、このイエス様のことばは、イエス様の働きの中心とも言えます。イエス様はいつも「父の家に、つまり父のふところの中にいた」ことを示しています。イエス様はすでに、父は、ヨセフではなく天の父であることを自覚して、その通りの行動をしていたのです。そして、両親はイエス様をまだヨセフの子だと思っていたのです。

 イエス様が公生涯に入るまでには、さらに18年あります。聖書はその間のことに全く触れていません。あるのは、この記事の前後の40節と52節だけです。


『2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。』

『2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。』

 「知恵に満ち」とか「知恵が増し」とは、単に、神様についての知識を持つことではありません。知恵とは、多くの知識と知識がつながることによって、背後にある神様の御旨を読み取る能力のことです。この知恵が十分に育つまで、イエス様の場合でも、30年間の準備が必要だったと言えます。このときイエス様は12歳で、律法学者と問答できるのですが、まだ18年間もの間、知恵を磨く必要があったと言うわけです。ですから、イエス様は、神様の知恵に満ち溢れるほどです。当然、律法学者にはるかに勝る知恵をもって、公生涯に入ったと言えます。その知恵は、神様に愛されている一つのしるしでもあるのです。