ローマ8:18-30

見えないものを望む

 この個所には、パウロらしい表現が使われています。「うめく」あるいは「うめき」は、「はげしい痛みで、苦しみもだえる」との意味合いです。

 

この言葉は、パウロが悩まされている病※1があって、パウロ自身がその苦しみに耐えきれなくて「うめいていた」事に関係しています。パウロは、度々、苦しめられて、教会の仕事にも差し支えるほどであったからです。彼が「肉体のとげ」※2と呼ぶように、激しい痛みに襲われたようですです。

 

※1:病とは、絶え間ない誘惑だったとか、多くの反対者達だったとか、目、マラリア、偏頭痛やてんかんなどの不治の病だったとか、言語障害だったなど多くの考えがあります。一つ言えそうな事は、身体的な病であった可能性が高いということです。

 

※2二コリ『12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。』


1.目に見えないものを望む

 耐えがたい痛みによって、パウロは教会の働きを続けることが困難になっていたと考えられます。繰り返し、コリントへ「すぐに訪問する、間もなく行く」と約束しておきながら、実行できないでいました(二コリ1:12~)。ところが、パウロが病に悩み、ただうめくしかない所に、できたことがあります。訪問ができませんから、パウロは仕方なく、手紙を送るという手段を取ります。ひとつのことで行き詰まり、道を閉ざされれば、別の道を開いてくださるのが神様です。そして痛みの中、うめきながら書き送った言葉によって、教会の人々が失望の中にあるにも関わらず、勇気づけられました。このうめきつつ歩む使徒パウロと、うめきを共にしたのです。

 

22節~『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。』

 

 パウロは、この「うめき」を、「産みの苦しみ」に言い換えています。「産みの苦しみ」は、大変な苦痛であっても、その先に新しい生命が生まれて来るという希望があるのです。この譬え方から、諸教会の苦しみ、うめきとは、伝道の困難さだったのかもしれません。多くの人々に福音を伝えたくても、妨害や迫害があったものと思われます。しかし、だからと言ってやめるわけにはいきません。福音を伝え続けるからこそ、「神の子たち」(イエス様を信じる人となること)が現れることを待つことが出来るのです。「うめき」ながらも、そこには希望があるはずです。このような手紙のやりとりで、パウロは各地の教会を励まします。希望がかなえられるまでの間、パウロの肉体の痛み、各地の教会の心の痛みや迫害による直接的な痛みは、このように手紙のやり取りで共有されました。そして、祈りあいました。

 

 それぞれの教会が望んでいることは、見えるものではありません。見えるものは有限であり、やがては朽ちてなくなってしまいます。また、天国には持って行くことが出来ません。私たちは、目に見えないイエス様を信じることで、義とされました。その義は、見えないですが、天国に持っていくことが出来ます。そして、福音伝道は、いかに困難で「うめき」が伴うものであっても、多くの「神の子たち」が現れるのであれば、それは、希望をもって耐えられる、「生みの苦しみ」なのです。


2.霊が助ける

 困難によって「うめき」、そして祈ろうとする時、どのように祈れるでしょうか?

その時聖霊は、私たちの祈りを導いてくださいます。「うめき」は、言葉にならない祈りとなるのです。その「うめき」を聖霊は聞き分けることが出来ます。

 そして、聖霊は神様にとりなしてくださいます。ですから、私たちは、神様に向けて「うめく」だけで大丈夫なのです。全ては、伝わるのです。このように「キリストはイエス様のことだ」と信仰を表わした者には、聖霊が働いて、神様にとりなしてくださるのです。

 『8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』 

 パウロは、ここでこの言葉を伝えます。わたしたちは、神様を愛する者たちです。そして、わたしたちは自ら選んでこの信仰の道に入ったわけではありません。神様が自ら、わたしたちをこの伝道の業のために召したのです。すべてが、神様によって計画されているのです。ですから、私たちは今の状況を嘆く必要はありません。必ず神様は良い結果をもたらすように働きかけられている最中なのです。ですから、すべてを神様にゆだねて、栄光が得られる時を楽しみにしていればよいのです。必ず神様は、「イエス様を信じる」信仰をもった人々全員を義とされるのです。そこには、栄光があります。