マタイ28:16-20

大宣教命令

20221120日 主日礼拝  

幸いな人々

聖書 マタイ5:1-12

 今日の聖書は、山上の説教です。共観福音書のマタイとマルコでは山に登ってイエス様がお話をしますが、ルカでは、平地におりてからイエス様が話をしています。また、マルコには、「心の貧しい人々」と言う箇所はありません。それぞれの福音記者は、多くのイエス様の記憶の中から、それぞれの視点から記事を書きました。ですから、選んだエピソードはそれぞれ違っていたと思われます。あるときは、山の上から多くの群衆に向かってイエス様が説教をし、ある時にはガリラヤ湖に舟を浮かべて、陸に群がる群衆に向かってお話をしました。どちらも風向きが大事です。山でお話をするのであれば、風は山から吹きおろしていなければ、声は通りません。また、湖でお話しするならば、昼間の湖から陸に向かう風にお話をのせたのだと思われます。みことばは、山の上の風に乗って、そしてガリラヤの風にのって群衆に届けられたのです。


イエス様が語られた言葉、その中心と言える一つが、マタイ5章から始まる「山上の説教」です。イエス様は多くの人々の病気を癒して、悪霊を追い出しました。イエス様のこれらの力ある業を見て、大勢の人々がイエス様のところにやってきます。

『5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。』

群衆の中には、イエス様に従う者たち、つまりイエス様に同行する弟子たちがいました。その弟子たちが今、イエスの言葉を聞いています。山上の説教は直接的にはこの弟子たちへの教えであります。その弟子たちを囲んで群衆もそのみ言葉に与ったのです。


山上の説教は八つの幸いから始まります。イエス様は「幸い」をキーワードに、祝福されている人々を語りました。人は幸福を求めます。イエス様の言葉を聞きに集まってきた人々も、みな同じようにささやかな幸福を求めていました。病気を治してもらいたい人もいれば、食べる物もない貧乏な人もいました。具体的な不幸を抱えている人たちは、「今の情況さえよくなれば、幸福になれる」と願っていたと言えるでしょう。ところが、イエス様は、「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いなのだ。あなた方は悲しんでいる、悲しんでいる人々こそが幸いだ」と言います。今、彼らを苦しめている貧困や病が取り除かれることは、救いとなるはずです。しかし、一つのことが取り除かれても、また別の災いや苦しみがやってきます。ですから、幸福とは、貧困でないことや病気でないことではありません。神様は、苦しみや悲しみを含めて、私たちが生きていることそのものを与えて下さっています。神様が私たちに関心を持ち、そして関わってくださることそのものが、神様の救いなのだとイエス様は言われているのです。幸せであることとは、私たちの心地よいことや、都合の良いことが起こることではないのです。


イエス様は、弟子たちに祝福の言葉を語ります。

『5:3心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである』

この訳は、すこし文学的な色合いをもった訳と思われますので、あえて直訳してみましょう。元の意味は、「幸いなるかな、霊において貧しい人」であります。ここでの「貧しい」は、「極貧者、物乞い」を意味する言葉なので、「極度の貧しさの中に生きる人々」を祝福しているわけです。そして、経済的な貧困ではなくて、霊的な貧困について言った言葉です。ですから、「物乞いのように、神様の霊を求める人々。その人々こそが、祝福されている」とイエス様は言ったのです。イエス様は、霊的に求める人々を指して、深い憐れみをもって語られました。「神様の霊を求めて、イエス様にすがるあなた方こそ天の国に招かれています。神様はあなた方の求めを知っておられる」と、イエス様は霊的に求めている人々に、「無条件の幸い」を宣言して、「天の国はあなた方のものである」と慰めてくださったのです。


次に祝福された人は、悲しみのなかにある人です。イエス様は言われます『悲しむ人々は、幸いである』

「悲しむ人」、原文では「悲嘆(ひたん)にくれる人」というニュアンスであります。死んだ人を悼(いた)み、愛する人々を慕って嘆く人が祝福されるとイエス様は言いました。人は悲しみを通して真実を知ります。人は順調な時には何も考えませんが、順調でなくなった時に、特に悲しい出来事を体験して、「神様、あなたはなぜこのような悲しみを私に下さるのですか?」と・祈りの中で問います。どうしようもなくなってようやく、私たちは神様により頼むのです。そうすると、私たちは神様から言葉をいただくことが出来ます。また、その祈りを通して神様の慰めと憐れみを知ります。それだから、私たちは励まされるのです。もう、これ以上に心が折れることはありません。だから幸いなのです。


3番目のイエス様の祝福は

『柔和な人々は、幸いである』。柔和と訳されている原語は、「謙遜な」という意味です。すなわち穏やかで、寛容で、怒りに鈍く、怒りを嫌う人であります。優しいだけではなく、怒ることでは何も解決できないことをよく知っているということだと思います。ですから、「殴られても殴り返さない。踏みにじられても仕返ししない。」、という生き方をする人なのです。こういう人は、真に平和をもたらすでしょう。ですから、祝福されているのです。


4番目は、『義に飢え渇く人は幸いだ』と語られています。もともとは、「今飢えている人は幸いだ」(ルカ6:21a)でした。当時のユダヤでは、民衆の多くは土地を持たない小作人です。そもそも、小作人の手元に残るものは少なく、食べていくのがやっとでした。そして、小作人の生活から抜け出す手段を持ちませんでした。ですから、明日飢えから解放されて、満ち足りるくらい食べるようになる そんな希望は抱けなかったのです。マタイはこのイエス様の祝福をこのように解釈しました。

「飢えている人が食物を求めるように、神様の義を追い求める人は幸いである。なぜなら神様の義を求める人には、それが与えられるからだ」

というわけです。何とか生きようと、なりふり構わず神様にすがって神様の義を求めようとすれば、必ず神様の義は与えられるのです。


5番目の祝福は「憐れみ深い人々」に与えられます。憐れみ深い人とは、人の過ちを赦し、そして、過ちから立ち直るように手助けをする人です。憐れみ深い人は、神様からの憐れみを受けます。何故ならば、隣人への憐れみは、神様の働きだからです。人は、人の過ちを赦すことはできませんが、神様の御意思に動かされると、赦すことが可能になります。そして、神様の御意思を聞いたとき、私たちにはすでに神様の憐れみの中にいるのです。


6番目の祝福は「心の清い人々」への祝福です。心が清い「その人たちは神を見る」 残念ながら、私たちは神様を見たことがありません。やはり、私たちは心が清くないのでしょうか? そんな心配をしなくて良いはずです。純粋に、ただ神様と出会いたい。その気持ちをもってイエス様に祈り続ければ、私たちは、いずれ神様に合うことが出来るのです。


7番目の祝福は「平和を実現する人々への祝福」です。ここで祝福されているのは、「平和を愛する人」ではありません。「平和を愛する」だけではなく、「平和のために働く人」です。平和をもたらすためには、この世の中から「むさぼり」や「暴力」を無くしていかなければなりません。その手本となって実践できるのは、「神の子たち」つまり、イエス様の弟子である私たちであります。


8番目の祝福は「義のために迫害される人々」です。『5:10天の国はその人たちのものである』。この最後の祝福はイエス様の言葉ではなくて、マタイが付け加えたのだろうと言われています。12弟子の時代には、12弟子たちに対する迫害は1回ぐらいしかありませんでした。しかし、この福音書が書かれたころつまり紀元80年頃のマタイの教会は、ののしられ、迫害を受けました。ですから、励ましが必要だったのでしょう。

『5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである』


 イエス様は「貧しい人々は幸いである」と言われ、「悲しむ人々」そして、「飢え渇く人々」を祝福しました。イエス様は、今幸せだとは言えない状況の人々を あえて「幸いである」と祝福しました。なにが幸いなのか? それは、神様が私たちに「命のもとである息」を吹きかけ、そして養ってくださっていること自体が幸いなのです。すべての出来事や物は、神様から与えられたのです。そのことを神様からの祝福として感謝してうけとめた時、人は神様によって満たされるのです。「心の貧しい人々」は、神様の霊を飢えた人のように求めますから、この世の栄誉や成功を望みません。ですから、幸いであります。「悲しむ人々」は自分が泣いたことがあるから、泣いている人と共に泣くことが出来ます。ですから、幸いであります。「柔和な人々」は自らの怒りを正義とは思いませんから、人に対して怒りをぶつけません。「義に餓え渇く人々」は神様の支配を待ち望み、神の国がやがて来ると信じますから、希望を持ち続けることが出来ます。

 すべてのことが、神様から与えられた幸いなのです。イエス様は、弟子たちに教えました。私たちが存在していることそのものが、神様の祝福であります。何があっても、神様を求めれば、イエス様のとりなしを通して祈れば、幸いはもうすでに其処にあるのです。私たちに、何が起こったとしても神様の導きの中にあるからです。ただ、そのことに気づくのは、順調なときではありません。むしろ、困難や悲しみと出会って途方に暮れ、神様にすがって祈った時、神様の祝福が共にあることに、そして、今までも導かれていることに気が付くのです。「幸いなもの」とは、イエス様を信じる私たちのことです。イエス様を信じたことによって、祝福を受け、そして聖霊が共にいてくださいます。そして、私たちはより祝福を受けたいですから、イエス様に見習って生きることを望んでいます。どうぞ、この幸いに共に与ってまいりましょう。