2024年 1月 5日 主日礼拝
『人となった神』
聖書 ヨハネによる福音書1:14-18
新年最初の礼拝となりました。今日は、ヨハネによる福音書1章からです。キリスト教の真髄とも言える、とても大事なみ言葉でありますから、恵みの言葉をもって、2025年の最初の礼拝を守りたいと思います。それは、今まさに迎えている、クリスマスのメッセージであります。
『1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』
ここで「言(ことば)」とは、元のギリシャ語聖書では、ロゴス(λόγος)です。ロゴスとは何か?と聞かれますと、意味はものすごくたくさんあります。例えば、「言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合・・・」などなどです。とても言い尽くせないほどに広い意味を持ちます。あえて単純に説明しますと、空想ではない事すべてがロゴスです。キリスト教では、ヨハネ1:1の「はじめに言があった・・」との書き出しを根拠に、「言(ロゴス)とは、神様の本質であり、イエス様のこと」と理解されています。そうすると、1章14節は、このような意味となります。
「イエス様は人となって、わたしたちと共にいた。わたしたちはイエス様の栄光を見た。それは、父なる神様の言である神の子の本質であり、私たちはイエス様が恵みと真理に満ちていることを身をもって体験した。」
ヨハネは手紙の中でこう言っています。
Ⅰヨハネ1:1『1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――』
「言」(ことば:ロゴス)は、世の初めからあって、世にある全てのものを造りました。その神様の言が、今、人となって生まれました。驚くばかりの出来事です。しかも、これは、「神話や、おとぎ話」ではない真実である との宣言です。語られているのはロゴスだからです。
イエス・キリストは神様であるのに、人となってくださいました。二千年前のベツレヘムで、母マリアは宿が見つからないまま出産を迎え、生まれたばかりのイエス様は飼い葉おけに寝かされました。そのみすぼらしく生まれたイエス様が、この天地すべてを造られ、永遠の昔から生きておられる神様ご自身なのです。これを学者たちは「受肉」と呼びます。神様が人と同じ肉体を受ける、という意味です。ですから、クリスマスはまさに「神様が人と同じ肉体を受け、地上に降りた」ことをお祝いする時なのです。この飼い葉おけに眠る赤ん坊が「言」です。全知全能の神様です。それが、クリスマスの証しなのです。
ヨハネが伝えているのは、「イエス・キリストは神であり、かつ人である」ということです。一体どういうことなのでしょうか?。そして、続きがあります。イエス様は、全き神様であり、なおかつ全てが人間なのであります。決して、神様と人の中間ではありません。神様として、全てのことができる方であり、人間としては、わたしたちと全く変わりない肉体を持っていた方だからです。そして、イエス様はわたしたちと、生活のすべてを分かち合ってくださいました。ベツレヘムで産声を上げたイエス様は、家畜に牧草を食べさせる時に使う飼い葉おけの中に寝かされました。それは、神の子のようではなく、またユダヤの王様のようでもなく、貧しい家族の一人となって、わたしたちの住む地上に来られたのです。
さて、ヨハネは福音書の中で、自分のことを「イエスが愛しておられた者」と書きました。イエス様が十字架につけられる前の夜、過越の祭りの食事でテーブルを囲んでいた時のことです。
ヨハネ『13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。』とあります。
最後の晩餐と呼ばれるシーンですが、椅子に座っていたのでも、立っていたのでもありません。当時の食事の習慣からいうと、「横になっていた」のです。ヨハネはイエス様の隣にいたのですが、イエス様の胸の辺りに寄りかかるようにしていました。それだけヨハネは、神様ご自身であるイエス様の身近にいました。イエス様の愛をいっぱいに受けて、弟子ヨハネが自分こそがイエス様に一番愛されているという気持ちを抱いたほどです。
さて、イエス様はどうして、肉の体をもってこの世に降ったのか?を 考えてみたいと思います。まず、この世の中は不条理でいっぱいです。一般市民の生活は昔も今も厳しいものであります。そして、不都合なこと、不便なこと、つらいこと、嫌なことも起こります。私たちは、つらいことがあると、罰を受けているのか?・・・そんなことを考えてしまいます。また、もしかして、この理不尽な仕打ちの先に、神様は何か良いことを用意されているのかも? そのように、考えたい時もあるでしょう。しかし、私たちには、神様のみこころがわかりません。だから、私たちの思いが、神様に通じていないと嘆いてみたりします。そんな中、神様と人との間に立ってくれる仲裁者がいてくれたら、どんなに救われるでしょうか? 神様はあまりにも大きく、強く、遠くにおられるので、今、自分の思いを届けてくれる方が必要なのです。
イエス様は神様でありながら肉体をもったので、私たちの肉なる者の弱さをすべて知っています。そしてなおかつ、イエス様は、この世の不条理を真正面から受けてくださいました。何も罪も犯していなかったのに、イエス様は私たちの罪を贖うために、十字架という悲惨な刑で命をささげたのです。
『1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」』
このヨハネは、バプテスマのヨハネです。イエス様のいとこに当たります。バプテスマのヨハネは、イエス様が「私より先におられた」と言っていますが、先にこの地上に生まれたのはヨハネです。しかし、「はじめに、言があった」ので、イエス様は天地創造の前からおられました。
福音書記者のヨハネは、このイエス様による恵みをこのように言いました。
『1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。』
ヨハネは、「恵み」という言葉を繰り返し使っています。「恵み」というのは何でしょうか?ギリシヤ語の恵み(カリス:χάρις)ですが、もともとは「喜び」という意味です。 特に新約聖書での「恵み」は、神様が人間に対して与える一方的な好意と優しさを指します。ですから、「一方的に受ける神の好意」という意味です。私たちが何も神様にしてあげられないのに、神様から好かれている、愛されている、ということなのです。恵みは、「私たちが受けるに値しないにもかかわらず、受けることができる」。それは、神様から好かれている現れです。私たちは、神様から祝福を受ける資格はありません。けれども、豊かに祝福してださるのが神様の恵みなのです。
それなのに、多くの人がこの恵みを受け入れません。その大きな理由は、「自分が罪人だ」という真実をまだ受け入れていないからです。「自分は救いようのない人間だ」ということを認めて初めて、神様の一方的な好意、恵みによる救い、に感謝することができます。一方で、自分が少しだけでも立派だと思っているならば、神様の恵みに気が付かないのです。ここで、「恵みの上に、更に恵み」ということに注目したいと思います。一度、恵みを受けてそれで終わりではないと言うことです。何度も何度も砂浜に波が打ち寄せるように、神様は恵みを繰り返し送って下さるのです。
『1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。』
律法は、紀元前14~15世紀ころに、イスラエルの民がエジプトから解放されたとき、神様から与えられたものです。ところが、律法の下での生活には問題がありました。それは、「人が律法を守ることができない」ことです。旧約聖書には、イスラエルの民が律法を破り、そして神様からの裁きを受けると言った、失敗の歴史が書かれています。人間には、その律法を守り行なう力がありませんでした。ですから、「律法による救い」は訪れなかったのです。
著者であるヨハネは、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と言っています。イエス様は「恵み」に満ちているだけではなく、「真理」にも満ちている方です。イエス様を知れば知るほど、その恵み深さに圧倒されます。それは同時に、イエス様に見倣うことが出来ない私たちの姿を見つけることにもなります。だからと言ってイエス様は、「お前は、こういう罪を犯した。」と責め立てることはしません。けれども、イエス様の行動や、み言葉の真実を通して、イエス様のようにはできない 私たちの罪が見えてくるのです。
『1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。』
私たちは神様を見ることができません。だから、神の独り子であるイエス様が仲介者として立って、私たちに神様を示してくださっています。イエス様は、神様の「ところ」に最初からいました。そのイエス様が人となってくださったことによって、父なる神様がどのような方かを知ることができるのです。それで、私たちにとって遠く感じている「神様」は、イエス・キリストによって急に距離が縮まったのです。イエス様の福音を通して、語る言葉、行いは、みな神様ご自身のものなのです。神様から私たちに近づいてくださっているのです。それは、一方的な神様の愛による恵みであることを覚えてまいりましょう。