20224年 12月29日 主日礼拝
『約束による相続人』
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3:26-4:75:2-11,13
今年最後の礼拝となりました。今日は、パウロが伝道旅行で三回訪れたガラテヤに、送った手紙からお話しします。この手紙は、紀元54年から57年ころ第三回伝道旅行中にエフェソ、またはコリントで書かれたようです。この手紙をパウロが書いた背景には、ガラテヤの教会にいた偽の兄弟たちの問題がありました。
ガラテヤ『2:4~彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。』
ここでの彼らとは、教会のなかにいた「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒」の一部の人たちです。教会には、異教徒(ユダヤ教以外)から改宗したキリスト教徒が多くいました。その元異教徒に対して、ユダヤ教徒だった信徒はユダヤ教の律法を守るよう要求したようです。その様子は、この手紙からも伺がえます。パウロの言葉から推測すると、彼らユダヤ教からの改宗者たちは、割礼を「神様とアブラハムの契約のしるし」として重要視したようです。このような立場をとる兄弟たちの言動がガラテヤの信徒たち、特に異教徒から改宗した人々にとって、大きな問題でした。
アブラハムの契約は、聖書の記事から読み取ると紀元前20世紀ごろのことです。モーセの律法の核心部分である十戒が与えられたのは、紀元前14-5世紀ですから、約5-600年の間、律法(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)がない状態だったことになります。そして律法ができて約1500年たって、1世紀に新約聖書が登場します。そのなかで、律法の役割が解き明かされていったわけです。律法は、アブラハムの時には、ありませんでした。アブラハムは律法によらずに義とされたのです。そして、エジプト脱出の時に、神様は律法を下さいました。そして、イエス様が生まれ十字架と復活の出来事が起こります。パウロは、イエス・キリストの十字架の救いと復活によって、永遠の命が約束されたことから、律法を「養育係」と説明しました。人は誰でも、律法によって、或いは良心によって自分を見つめた時に、自分自身の罪を知り、その罪の深さから抜け出せない自分を思い知らされます。つまり、律法は自分自身の罪を知るために必要だったわけです。しかし、その罪に落胆することはありません。そんな罪深い自分にも神様は救いの手を、差しのべるからです。
神様は、救いの手としてキリストを差し出しました。その救いの手は、イエス様の十字架の出来事以来、ユダヤの一民族を超えたすべての人々への救いとなりました。それは、イエス様による律法の完成を示します。
『3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。』
ここで「あなたがたは~神の子なのです」と、パウロは宣言しています。ここでパウロが、「あなたがた」と言っているのは、この手紙の受取人であるガラテヤの人々です。ガラテヤの人々が神の子とされているのは、ガラテヤの人々がイエス・キリストの内に住んでいるからです。そして、キリストの身体として、頭なるイエス様に結ばれています。もともと、父なる神様から生まれたのは、御子イエス・キリスト一人だけです。そして、人間は被造物でありますから、決して神の子ではありません。しかしキリストの内にあって、「キリストに結ばれた神の子」なのです。律法の奴隷という古い服を脱ぎ捨てて、キリストを着たわたしたちは、自立したのです。そして、私たち罪人は、神の子とされました。当時のローマでは、成人式を迎える日に、古い服を脱いで新しい服に着替えました。同じように、成人となったガラテヤの信徒たちは、「キリストを着ている」 とパウロはたとえたのです。
『3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。』
この言葉から、当時、ユダヤの人々は、ギリシャ人、奴隷、女を差別していたことが伺えます。当時は、当たり前のように、差別があったのでしょう。しかしパウロは、キリストにあるなら、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分もなく、男も女もないと語ります。これらすべての差別を取り除くならば、キリストにあって一つになるのだ と言うわけです。確かに、救いの根拠は、ただキリストの恵み のみにあります。イエス様は、まったく分け隔ての無い方なので、全ての人々を救いに導くのです。
ところで、私たちは知らず知らずに差別的な事をしてしまいます。例えば、他の信仰を持っている人に対して、キリスト教の信仰を持っている自分の方が救いに近いというような思いを持ったとします。これは、差別的な考えです。自分の信仰を他人の信仰と比べて、何か 見つかるでしょうか? 見つけたとしても、その違いが「自分が救われるだろう理由」になるのでしょうか?。 事実、自分が救われたのは、ただただ、キリストの恵みなのです。救いに与る資格など何も持ち合わせていない自分が、救われているのです。そのキリストの恵みを信じるなら、自分を誇ったり、相手を裁いたり、相手を差別したりする意味はないはずです。キリスト教が愛の宗教であるのは、救いは、何の功績もないわたしたちに、無償で一方的に与えられているからです。わたしたちには、一切誇れるような所はありません。しかし救いは、ただキリストの恵みによって、一方的に始まったのです。もしも、救いが恵みではなく、私個人の行いよって始まるのなら、私はその行いを誇るようになります。そして、もし、ガラテヤの人々が救いのために割礼を受けるなら、必ずその自分の行いによって自分に正義があると主張するようになります。そんな風に自分の行いを誇る。それは、他人を裁くとともに、差別と、分断を生み出すばかりです。
キリスト教が全ての人々に訴えているのは、「救いは、ただただキリストの恵みによる」ことです。救いは、無償で与えられるのです。すべては、私たちの行いではなく、「キリストの恵みによって」一方的に与えられるのです。その真逆で、自らの救いの為に何かを行おうとすることは、不信仰だと言えます。それは、まさにキリストの恵みによって得た自由を捨て、再び奴隷の状態に戻ることです。ですから、パウロは行いによってとか、ユダヤ人の血すじによって、アブラハムの信仰を受け継ぐのではないと語ります。イエス様を着て、キリストの内にとどまる、イエス様を信じる人々こそ、アブラハムの子孫であり、神様との約束の相続人なのです。
パウロはこのキリストの救いについて、律法との関係にたとえます。ここでの、「わたしたち」とは、すべてのキリスト者のことでありますが、特にここの場合は、律法に縛られていたパウロをはじめとしたユダヤ人キリスト者を念頭に置いています。
『4:1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。』
当時のローマの場合は、大体25歳くらいまでの未成年は、親や後見人による厳しい監督の下に置かれていたそうです。ですから、未成年の間は自分の財産でも自由に使えず、親や後見人の僕としての生活をしました。パウロはこのようなローマの習慣を、イスラエルの救済にたとえます。律法によって罪に定められ、律法によって自分自身の汚れと罪を思い知らされた民に対し、時が満ちて、メシアが遣わされました。そのとき、未成年であり、監督下にある僕から「成人として」、「自由人として」、「相続人として」、解放されたのです。
『4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。』
「神の子となさるため」と訳されていますが、元のギリシャ語では「養子縁組をするために」と書かれています。当時、養子は、実子との差別がなく、全く同じ権利に与りました。ですから、キリストにある私たちも同じように、イエス様と同等の天の国の相続者となるために、子としての身分を受けたのです。だから、キリストが父なる神様から相続する全てのものに対し、私たちは共同の相続人となったのです。
『4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。』
ここの、アッバはヘブル語で 意味は「父よ」です。この言葉は、私たちが着ているイエス様が、叫びます。それは、私たちが「父よ」叫んだのと同じことなのです。
イスラエルの律法の下の置かれていた民に、キリストが降され、キリストは民を律法の支配から贖い出しました。同じように、ガラテヤの人々に対しては聖霊が遣わされています。それは、ガラテヤの異邦人たちが、キリストを信じたからです。キリストを信じないユダヤ人にとっては、「世を支配する諸霊」や「律法」は、依然として、厳しい養育係であり続けます。しかし、キリストを信じるユダヤ人や異邦人にとっては、自立を意味します。キリストによって律法からの自由に与ったので、未成年であったのが成人として解放され、そして神様の養子として相続人になったのです。
救いとは、キリストの内にあることです。私たちはアダムの子孫であり、罪人として生まれました。しかし、時が満ちて、キリストの十字架と復活によって新しく生まれ変わりました。わたしたちは、律法の下にあるものから、キリストの恵みの下にあるものとされたのです。この恵みに感謝しましょう。