2024年12月 8日 主日礼拝
『預言は神様からの言葉』
聖書 ペトロの手紙二1:16-21
今日はアドベント第二週です。先週は預言者の蝋燭をともしました。今日はそれに加えて、天使の蝋燭をともしています。
さて、ペトロの第二の手紙ですが、死を覚悟したペトロが、最後に書き残した手紙です。この手紙の中に、それをうかがわせる記事があります。
Ⅱペトロ『1:14 わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。』
この時代は、まだ新約聖書はありませんでした。ペトロ自身が語った福音は、おそらく「マルコによる福音書」の元となったイエス様の語録とペトロの体験談、そして「パウロ書簡」です。この時点(Ⅱペトロの成立はAD67年)で新約聖書は、ペトロが高く評価していたパウロ書簡と、ペトロの手紙Ⅰ、Ⅱがありましたが、まだまとまった「書物」ではありませんでした。また、福音書も、まだ存在していません。福音は、イエス様の教えを直接受けた「使徒」たちが語りました。
さて、今日の聖書の前半で、ペトロは、「宣べ伝えた福音は、目撃し体験したこと」だと証しします。
『1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。』
ここで、「来臨」(パルーシア:παρουσία)と言う言葉がありますが、元のギリシャ語では、存在する、到来するという意味です。特に、キリスト教では、イエス様の再臨の意味を持ちます。(ただし、新共同訳聖書には再臨と言う言葉はありません)イエス様の再臨の時は、裁きの時であり、世の終わりの時でもあり、私たちがイエス様のいる天に住むときであります。また、「巧みな作り話」とは、異端の教えのことです。その様子もこの手紙の中にあります。
Ⅱペトロ『2:1 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。~』
ここでは、将来現れる異端の問題に聞こえますが、手紙のあとの方では、異端を今現在の教会の問題点として、ペトロは捕えています。偽教師は、排除してしまえばよさそうですが、簡単ではありません。「再臨」がまだ来ないことに不安を抱く人が多かったのです。偽教師は、その不安に付け入りました。
Ⅱペトロ『3:4 ~「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」』
当時は、自分たちが生きている間に、イエス様が再臨すると考えられていました。それが、まだ来ないわけです。そうなると教師が、「イエス様の再臨はない。」と言い出して、教会を混乱させます。この偽教師の教えは、キリスト教の福音ではなく、異端なのです。その教えはやめさせなければなりません。しかし、「キリストの再臨がいつ来るか?」について、答えがないので、信徒たちは惑わされました。そこで、混乱を回避するために、「使徒たちの教えに聞きなさい」と、ペトロは話し始めます。当時、ペトロ自身が最も権威のある使徒でしたから、信徒たちは、ペトロの話に耳を貸してくれたのでしょう。それは、この記事からも読み取れます。
『1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。』
この記事は、高い山で、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(マルコ9:2-8)時のペトロの目撃証言です。この時、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、キリストの「威光」を見ました。
そして、ペトロたち3人は、神様の声を聞きます。神様は、ペトロの前に現れたのです。この時神様は、ペトロに指導者としての役割を与え、また、そのために必要な賜物も権威をもペトロに与えたと言えます。
『1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。』
ここでペトロは、「この世が暗闇に覆われている」と言いました。それでもキリスト者たちは、預言の言葉をともし火として歩むことができます。それは、神様の言葉が光となって足元を照らすからです。明けの「明星」とは金星のことです。夜空に金星が見えはじめるときは、やがて夜が明けます。夜明けまで、あと少しだから、預言の言葉に耳を澄ましなさい。つまり、再臨の時が来るから、それまでみ言葉を頼りにしてくださいとのペトロの励ましでした。
『1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。』
余談ですが、ローマ・カトリック教会はこの20節を根拠にして、「聖書は信徒が解釈するべきではなく、カトリック教会の教えを司る教職によってのみ解き明かされるべきである」、と主張してきました。単純に言えば、解釈は本職に任せなさいと言うことだと思います。もっと極端な主張もあります。ローマ法王には誤謬(ごびゅう:間違えること)がないとの考えです。最近は、少し修正されて、ローマ法王は、宣教中に限って間違うことはないとされています。
・・・本来、ペテロがここで述べているのは、このようなことではありません。神様の啓示である旧約聖書は、人間の理性ではなく、聖霊によって理解するものです。だから、まず第一に、祈って、神様に聞いてほしいのです。
そもそも、旧約聖書の預言者は、自分の意思で預言をしたのではありません。かならず、神様の言葉があるわけです。例えば エレミヤ『1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。』このように、神様からの言葉があってから、預言者はその言葉を伝えました。つまり、何も加えない、何も削らない。そのままを伝えるわけです。だから、聖書を解釈する時も、神様からの言葉を聞く準備が必要です。そして、神様の言葉が臨んだ時、そのまま受け止める。そして、自分の理性をもって加工をしない。それが、み言葉を教える者、聞く者に求められます。
『1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。』
ペトロは、預言の本質について教えました。そもそも、預言は神様の言葉です。あなたの言葉でも、私の言葉でもありません。だから、預言を語るのも、預言を解釈するのも、神様の働きかけである聖霊によらなけらばなりません。預言を人の思いで加工してはいけないのです。それに、私たちは直接神様と会話ができませんから、イエス様を通して祈り求めてください。そうすれば、聖霊は神様の言葉を私たちに届けるのです。そして、このことこそが、ペトロが伝えたいことでした。
当面の課題は、信徒たちは、使徒たちと異端の教師たちのどちらかを選ぶことです。まず、ペトロの教えを選ぶでしょうか?ペトロは神様の声を聞きました。そして、神様から力を頂いているという権威をもっています。そして、ペトロは「人間の意思で語ってはいけない」と教えているわけですから、ペトロ自身、教えるときは、神様に祈り、そして示されたことを語っていると言う事になります。だから、「ペトロの教えを信用しなさい。」・・・ここまでは、十分に伝わると思います。しかし、ペトロや他の使徒がいないとき、誰の言葉を信用すればよいのか?そこが、まだ解決しませんね。この教師は異端ではないか?または、神様の言葉を取り次いでいる教師を拒否していないか? この判断が求められるのです。しかし、その判断のためにやることも、さきほどの預言の解釈と同じことに行きつきます。神様に祈って、聞くしかありません。人の知恵だけではわからないからです。
聖書は、神様の言葉であります。そして、読み方としては、理性だけで読むこともできますし、その神秘性を受け入れながら読むこともできます。ただ、理性ばかりに頼って聖書を読むならば、正しく理解することにはなりません。旧約聖書と新約聖書は、その全体を通じて救い主キリストについて証しをしています。ですから、キリストは聖書を読み解く上で鍵となります。イエス様に自分の罪の贖いを求める。そして永遠の命に感謝して与る。これが、私たちキリスト者の信仰の立ち位置、足場であります。もし、理性に偏るならば、時として信仰生活の足元が乱れます。たとえば当時の実際にあった問題です。心と体は別のものだから、信仰さえあれば、不道徳なことをしていても問題がないと言う者たちがいました。そして、すぐにもイエス様が再臨するのだから、それまでに持っている財産を使って楽しんでおこうと いうわけです。それがもともとの動機です。不純な動機のために言い訳に理性を用いたと言えます。
『1:21~預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。』
ペトロは、このように語りました。たしかに、預言は人が語った言葉です。しかし、その元はと言うと、「預言は神様の言葉」なのです。だから、聖書を読む時には、「独り子を十字架につけて私たちを救おうとしている神様の愛」を前提に、その意味を読み取る必要があります。ですから、聖書を理性によって解釈する前に、聖霊に導かれるよう まず神様に祈って、神様の御心を求めてまいりましょう。