マタイ13:53-58

霊が信仰を導く

2023年 12 10日 主日礼拝  

霊が信仰を導く

聖書 マタイ13:53-58

 先週からアドベントで、第2週となりました。今日は天使の蝋燭に火が灯りました。来週は羊飼いの蝋燭、そして24日にはクリスマス礼拝で、ベツレヘムの蝋燭と真ん中のイエス・キリストの蝋燭をともします。イヴ礼拝については、例年通り24日(日)の午後7時から守ります。救い主であるイエス様の誕生を待ち望むアドベントの2週間。神様の愛に感謝して、その喜びを周辺の人々に伝えていきましょう。

 さて、今日の聖書は、マタイによる福音書からです。今日の記事の背景には偏見と言いますか、ナザレという田舎町から、立派な人が出るわけがない との先入観が見られたようです。その証拠にヨハネは、この記事を書いています。

ヨハネ『1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。』


 ところが、それは大きな認識違いでした。その田舎町ナザレの一人の女性が、受胎告知を受け、救い主であるイエス様を生んだのです。その後、ヘロデ大王が幼子イエスの命を狙ったので、ヨセフ一家はエジプトに逃げます。そんな時の記事です。

マタイ『2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、

2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。』

 この記事から見ますと、なんと旧約聖書の中にナザレに救い主が現れることが、預言されていることになります。しかしです。旧約聖書にはナザレという町の名は一切出てこないのです。調べてみると、ナザレのギリシャ語名は、ナゾーライオス(Ναζωραῖος)ですが、元はヘブライ語で「若枝」という意味だそうです。つまり、救い主が生まれることを象徴する「若枝」こそがナザレなわけです。若枝はいくつか旧約にでてきますが、まずこの預言を思い出すことでしょう。

イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。』


 先ほど、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というナタナエルの言葉を紹介しました。それは、旧約聖書の預言から見ると、全く見当違いな言葉であります。ナザレの人々は自分たちの小さな町にメシアが現れることを知らずにいたのです。しかも、その「若枝」の上には「主の霊がとどまる」。そしてその霊は「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊」なのであります。ナザレつまり若枝には、「主を知り、畏れ敬う霊」がとどまるのです。ナザレの人々も、ナタナエルがそうであったように、「ナザレに救い主が現れる」ことを知らなかったのであります。

 また、エッサイの根からとは、エッサイから生まれる子孫を意味します。エッサイは、ベツレヘムの人で、ダビデ王の父であります。エッサイの祖父がボアズ、祖母がルツです。ボアズは、イスラエルの人でエフラタ族。ルツは、異国モアブの女性でありました。また、この地方は「エフラタ」と女性の名前がついていました。するともう一つ、有名な預言を思い出すと思います。

ミカ『5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。』

 ここは、ヘブロンの地でありまして、ヤコブの妻ラケルのために墓地を購入するなど、イスラエルにとって由緒ある場所であります。この2つの預言は、ベツレヘムに「エッサイの子孫」から「救い主」が生まれることを示しているのです。ですから、イエス様が「ナザレ人と呼ばれる」というのは、イエス様が「エッサイの根から生まれた若枝」であることも意味しているのです。

 マタイはそのことから、『「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。』』と書いたわけです。


 さて、今日は「この人は大工の息子ではないか」と 故郷ナザレで評価されなかったイエス様の記事からです。イエス様への評価は、当時どうだったのかを思い出してみましょう。最初に評価したのは、バプテスマのヨハネです。

ヨハネは、イエス様を神の子と信じました(マタイ3:14)がしかし、後に疑いを持ちました。(マタイ11:1-15) この記事をはじめとして、人々がイエス様を信じなかったことが書かれています。イエス様は、「笛を吹けど踊らず」(マタイ11:16-19)の譬えで、この時代の人々がイエス様についてこないことを嘆きました。また、伝道先で数々のしるしが行われても悔い改めない、町々を叱っています(マタイ11:20-24)。そして、今日の箇所の前マタイ12章(1-50)では、ユダヤ教の指導者たちの伝統的な教えとの間で、論争が起こっていました。バプテスマのヨハネも、この時代の人々も、伝道した町々も、そしてファリサイ派や律法学者等のユダヤ教の指導者たちまでも、イエス様を信じることはありませんでした。しかし、福音書を読みますと、そんな状況にありながら、人々の信仰によって奇跡は起きています。ですから、全ての人がイエス様を信じなかったわけではないのですが、その絶対数というか、信じる人の比率が少なかったのだと思われます。

 そして、今日の記事です。故郷ナザレで、イエス様は絶望的な評価を受けます。普通は、故郷であるならば、応援してくれそうでもありますが、そうはならなかったのです。

『「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』

 故郷の人々は驚きました。イエス様の教えは、彼らにとって新しく、聞いたことのないものでした。そして、譬えを使って、また非常に大きな権威をもってみ言葉が届けられました。また、イエス様が行った奇跡にも、しっかり立ち会って、そして驚きました。しかし、この驚きは、イエス様への尊敬や信仰にはつながりません。そこには、強い先入観があるようです。なぜなら、彼らはイエス様がどこから来たのか?親は誰か?そして育った環境まで知っているからです。そのイエス様の育った環境で、学者になることも、預言者となることも有り得無いといった先入観であります。だから、悪魔にでも魂を売って、特殊な力をもらったかのように思ったわけです。教育も受けていない、大工の息子です。稼業を継ぐのが普通なのに・・・故郷の人々は、この様に思ったのでしょう。何よりも、人々はイエス様の家族を知っていますから、普通の人だと承知しています。ですから、神の人つまり預言者だとは思いません。ましてや、神の子であるなどとは、思いもよらないはずです。だから、イエス様がどのようにしてその知識や奇跡の業を手に入れたのか? かえって、イエス様を疑ったのです。このようにして人々は、イエス様が神様の知恵を持ち、神様の力を持った方であることを受け入れなかったのです。もし彼らが、ナザレに救い主が現れる預言を信じていたなら、このような失礼な質問をしなかったでしょう。しかし、ナザレの人々は、侮辱的に「このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と問います。そして、さらに続けます。


『13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」』

 人々は、こう口々に言って、怒りました。新共同訳聖書では「つまづいた」と訳していますが、もとの言葉は、「罠を置く」、「怒る」との意味を持ちます。人々は、信じられずにいたと言うような受け身の姿勢ではありません。むしろ攻撃的に、いったい何者か?とイエス様に腹を立てたのであります。そしてイエス様のこの言葉です。

『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである』

 預言者は敬われるべきであります。なぜ、故郷の人々や家族は、預言者として認めないのでしょうか?基本的に、やはり幼い時のことを知られているからでしょう。また、成長の途中にある姿を思い出すならば、いかに完成した教えと、奇跡を示されても、尊敬できないのだと思います。ですから、どこか自分より低い者として見下しているのかもしれません。

 イエス様が公生涯に入ると、その最初の働きの場はカファルナウム近辺でした。イエス様はそこで「天の国のたとえ話」を教えていました。その後に、カファルナウムを出て、故郷であるナザレに行き、人々にイエス様の元々の故郷である「天の国」について教えていました。ナザレに住む人々は、素朴な人たちなので、イエス様への敵対感情は無かったものと推察できます。しかし、残念ながら、素朴であることと信仰を受け入れることとは別のものであります。

 彼らがイエス様をどのように見ていたかといえば、イエス様を自分たちと同じ人間としてしか見ていなかったと思われます。彼らは、ナザレという田舎の町からメシアが出ることなど、想像だにしていなかったのです。そのときの彼らは、イエス様を目で見て、イエス様の言葉を聞き、イエス様の奇跡に立ち会いました。しかし、それは、ただの風景でありただの言葉であり、そして肉の体験でありました。全ては肉体だけで見て、聞いて、そして体験したのです。霊とはつながっていなかったのです。霊につながらなければ、イエス様の言葉に感心はしても、イエス様を知ることは出来ません。また、イエス様のみすぼらしい姿を見て、「先生」だとの尊敬の感情は起こらないでしょう。霊につながらなければ、外見だけで判断してしまうからです。そして、不思議な業を見ても、悪霊にとりつかれているなどとして、霊的にイエス様を見ようとしない。それでは、イエス様が神の子であると信じることはできないのです。そもそも、私たちがイエス様を信じている事実が、本当に不思議な、奇跡そのものであります。肉の知識ではとても説明ができません。神様の霊の働きがなければ、イエス様を知ることができないからです。

 イエス様を知る。そのためには、イエス様のみ言葉を信じようとしたり、疑ってみたりすることから始まります。本当にそうだろうかと祈り求めることで、新しい世界に導かれるのです。ただ、これは肉の働き、肉の理解の事であります。それでも、祈り求めていくならば、霊的につながり始めるのです。肉の体だけでは理解できないことが、霊的に導かれわけです。そうすることで、今まで知り得なかった知恵を知り、その知る喜びを重ねることで霊的な力が養われます。これまで教えられてきたこと、あるいは、常識とされることでも、一度は疑ってみる。「疑う」ことは「もう一度考え直してみる」ことでありますし、何が真実なのかを神様に祈り求める良い機会になります。イエス様を信じる信仰を深めるには、自分にある「常識」が邪魔をしているかもしれません。だから、イエス様に祈り求めることで、霊的に導いていただくのです。そうすると、肉の知識・理解ではなく、霊的にイエス様のことを受け入れ信じることにつながるのです。それを願うイエス様は、私たちの霊をより深く、招いておられます。この恵みに感謝してイエス様を求めてまいりましょう。