ルカ16:19-31

 陰府に落ちる金持ち

 

 このたとえは、最も厳しいものです。おそらく、13節と14節で「神と富に同時に仕えることが出来ない」とイエス様が言ったことをファリサイ派の人々があざ笑ったことを受けています。

物語には3つの部分があります。「金持ちの行動」、「金持ちの運命」、そして私たちを彼の罪と彼の終わりから守るための「警告」。また、金持ちはファリサイ派の人を指しているのは明確です。


1.金持ちの行動

「この金持ちは、毎日贅沢に遊び暮らした」とは、ありますが、特に悪いことをしたとも書かれていないし、善人であったかも信仰があったかどうかも触れていません。この金持ちは何もしなかったのです。また、相当の金持ちだったらしくて、紫に染めた衣を着ていました。紫の色は、貝から微量にとれる染料を使います。相当高価なものなので、王侯貴族等の金持ちしか持つことは出来ません。そのように贅沢に生きている間、貧しい人ラザロを完全に無視し、自分の富を自分の満足のためだけに使ったのです。この金持ちの性格についてはこれ以上言う必要はありません。貧しくて、飢えているラザロの前で、贅沢な食事をし、その食卓から食べ物をこぼしていたわけです。それに、そういった光景をラザロに見せることを楽しんでいたものと思われます。また、食べ物にしても、はれ物にしても、金持ちはラザロにしてあげられることをしませんでした。

 「ラザロ」という名前は、「神は助けである」という意味です。ここにヒントがあるかもしれません。ラザロは神の助けをほとんど受けていません。たぶん、ラザロは食卓から落ちたパンを手に入れていたでしょう。しかし、金持ちからもらったことはないのです。犬が彼のはれものをなめたことは、人には相手にされずに、犬だけが相手をしてくれたこと、そして犬になされるままにしていたことを示します。ラザロは、受動的で無視されることに無力感を持ちました。誰も彼も、犬を追い払わなかったのです。 

 金持ちには、貧しい人々を探して助ける義務はありません。しかし、目の前の人を見殺しにしていました。私たち全員には、慈悲を実践する機会があります。これらの機会を無視するというのは、おそろしく闇が深いことを意味します。ラザロが私たちの家の前に横たわっているときに何もしないならば、これ以上になく神様をがっかりさせているのです。


2.金持ちの運命

 神様は、死んだ二人をお互いに見えるところに連れて行きます。しかし、と言ってもラザロはアブラハムの宴会に招かれています。そして、金持ちは陰府でさいなまれています。これは、皆が期待する事でありますが、金持ちがファリサイ派の人々を指しますから、「何も罪に当たることをしていない」と主張するファリサイ派の人々が陰府に行くと、イエス様は予告しているわけです。

 二人の男の終わりの違いは、ラザロの葬式があったのかどうかもわからないのに対して、金持ちは「葬られた」。つまり、この世の最後まで、ラザロは人々から放っておかれ、金持ちは人々から世話を受けていたのです。ラザロの埋葬の省略は、彼を死に至らしめた金持ちの「怠慢と無慈悲さ」が彼の死体を埋葬せずに残したことを暗示していると考えられます。


 金持ちの陰府での苦しみの恐ろしさは、彼のような利己的な人生への報復であることを示します。金持ち自身の魂はここで耐えられるはずがありません。しかし、死んですべての持っていたものがなくなってしまい、陰府での拷問を防ぐ手段がないのです。ここでは金持ちとラザロの位置が逆転していることにも注意してください。貧しいラザロは、今や豊かさと喜びの中にいて、金持ちは誰も助けてくれない苦しみの中です。

 金持ちは、報復を受けている今、ラザロに金持ちが与えなかったまさにその助けを得ることを望んでいます。そしてアブラハムにお願いしたのです。アブラハムの答えは、厳しいものでした。

『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 生きているときに良いものをもらっていた。つまり、慈悲のある行動をすることが何度でもあったが、金持ちはそのようなことを全くしなかったのです。ラザロ自身がなにか良いことをしたから、天国に挙げられたとの説明でもありません。つまり、良いことをした、悪いことをしたの違いが、死後の運命を決めるのではなく、無慈悲な者が陰府に落とされ、もだえ苦しむと言うのであります。

 また、大きな淵があって、ラザロが金持ちのところに行くことが出来ないと、永遠に報復を受けることをアブラハムは宣言しました。


3.警告

 物語の最後の部分は、無情な利己主義の致命的な罪は許しがたいと教えています。

 兄弟たちにとの金持ちのお願いは、みにくい言い訳でした。彼は、もし知っていたら、物事は異なっていただろうと思いついたのです。彼は責任を自分自身から彼に与えられた警告の不十分さに転嫁します。アブラハムに向かって、ちゃんと教えないあなたが悪いと言うわけですね。それに対して、アブラハムの答えは、「モーセと預言者」で十分であることです。

 警告の不足が原因ではありません。学ぶ意志にあります。その人が聞きたくないなら、聞くわけがありません。私たちは、必要な教え天から頂いています。そして、金持ちは生き方が間違っていることを知らなかったからではなく、選ばなかったのです。彼は自分のためだけに生きてしまったのです。