ローマ12:1-8

 御心に従って

2020年 6月27日 主日礼拝  

御心に従って』  

聖書 ローマの信徒への手紙12:1-8 

今日から来週の日曜日までの一週間は、日本バプテスト連盟の神学校週間です。日本バプテスト連盟と各地方連合には4つの神学校があります。その中で連盟の神学校と位置付けられているのが、西南学院大学神学部です。この中には神学科の神学コースと、大学院の神学研究科の博士前期コース、博士後期コース、そして神学専攻科の4つのコースがあります。現在の学生は、神学コース3名と、大学院の博士前期コース4名、そして神学専攻科等2名の計9人です。最短で3年、通常6年で牧師になります。西南学院と言いますと、福岡の西新にある南部バプテストのミッションスクールで、大正時代からの伝統があります。神学校は、学園紛争のあったころの1966年に創設されています。日本で神学部のある大学は、上智大学、東京神学大学、東京基督教大学、同志社大学、関西学院大学、西南学院大学の6大学だけで、神学科だけの大学を加えても、十大学あまりです。そのなかにあって西南学院は、日本バプテスト連盟の中心的な神学校ですので、私たちは祈って支えていく必要があります。

次に、東京バプテスト神学校です。1962年に信徒伝道者養成のための〔東京バプテスト福音宣教学院〕として発足しました。運営主体は、東京地方バプテスト教会連合で、後に北関東連合の支援と、神奈川連合の支援を受けるようになりました。教室は文教区の茗荷谷教会にあります。ここには、神学専攻科 4名、教会音楽専攻科1名の計5名の人が神学生として学んで、牧師・教育主事や音楽主事を目指しています。また、多くの人が教会での奉仕のために、東京バプテスト神学校で学んでいます。授業形態は、夜の授業を受けますが、実習等を除き、通えない人は、リモートやビデオで受講しています。

次に九州バプテスト神学校です。九州バプテスト神学校は、1988年に「働きながら学べる夜間の神学講座を開講して欲しい」と願う人々の祈りの中で夜間の講座が開講されました。教室は、福岡市の大名にあります。平尾バプテスト教会の二つ目の礼拝堂で、大名クロスガーデンと言う場所にあります。本科と牧師・主事コースがあり、牧師・主事コース7名が神学生として九州バプテスト神学校で学んでいます。多くの人は通信での学びとなりますから、夏・冬のスクーリングが必須となっています。

東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校とも最短で5年の学びが必要です。本科を卒業した後の、最後の2年だけが奨学金の対象となります。

そしてもう一つあります。札幌教会の旧会堂を使った北海道バプテスト研修センターです。ここでは、2010年から北海道地方連合の信徒研修を行っています。

 

神学校週間の祈りの対象は、この4つの神学校です。これらの神学校は、牧師・主事の養成と信徒教育を担っていますので、その働きの上にお祈りいただきたいと思います。そして、全国壮年会が進めています神学校献金は、神学生の授業料を支援する等の奨学金のために使われます。ここで、神学生と呼ぶのは、西南学院は、キリスト教人文学コースを除いた神学部全学生、東京バプテスト神学校の神学・教会教育・教会音楽の専攻科の学生、九州バプテスト神学校の牧師・主事コースの学生を指します。もともとこの奨学金制度は、西南学院の神学生のために連盟が作ったものです。それが、連盟の会計で支えられなくなったので、全国壮年会には神学校献金を、全国女性会(当時婦人会)には世界伝道の献金の推進を委託したという経緯があります。ですから、教会員には大変申し訳ないのですが、通常の献金のほかに別枠で神学校献金をお願いしているわけです。この経緯からわかりますように、西南学院の神学科全員を対象とした授業料の支援で始まった制度でした。それが、献身者が減る傾向を食い止める対策として、西南学院の神学生の生活支援まで広がっています。献身者が大幅に少ないために、資金的余裕があることから、家族持ちが神学生として献身しやすくするために配慮したわけです。そして、最近になって東京バプテスト神学校と九州バプテスト神学校にも、最後の2年間だけ授業料を支援する事になったと言う経緯があります。2020年度の奨学金の実績を言うと、西南学院に930万円。東京バプテスト神学校に48万円、九州バプテスト神学校に24万円の奨学金を支給しました。

経堂バプテスト教会の昨年度の神学校献金は、28,000円で、18,000円をこの奨学金用の神学校献金として献げました。そのほかに、経堂教会では東京バプテスト神学校と九州バプテスト神学校向けに、神学校の運営のための神学校献金を5,000円ずつ献げております。どうして神学校献金を分けるのかと言いますと、全国壮年会がお願いしている神学校献金は、3つの神学校への奨学金と西南学院向けの奨学金事務にだけ使われるからです。神学校献金と言う名前から、みなさんは、神学校全体への支援を意図して献金していますので、壮年会連合への献金と別に、東京バプテスト神学校と九州バプテスト神学校に直接献金させていただきました。

神学校週間で、最も皆さんに祈ってほしいことは、献身者が多く与えられることです。今約300の教会・伝道所がありますが、約一割の教会には牧師がいません。ですから、牧師を志す人が倍以上に増えないと、牧師の高齢化に従って無牧師の教会が増えてきます。また教会も少子高齢化で財政規模が小さくなってきており、牧師を招聘することが困難になってきています。そういう意味からも、信徒が宣教を担う教会が増えてくることが予想されます。その流れの中にあって、神学校はその志がある信徒のために、宣教等を学ぶ機会を提供しています。ですから、多くの人が献身するよう祈っていただくとともに、多くの教会員が宣教を担っていけるよう、神学校の働きを憶えて祈っていただきたいと思います。

 

さて、今日のみ言葉を読み解いてまいりましょう。

 「こういうわけで」と言う言葉から始まりますが、これは今日の聖句に上げました『11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。~』とのパウロの証を受けています。

 すべては神様から出て、そして神様に向かっているのですから、私たち自身も神様から出た者です。そして、神様に向かう事は神様を礼拝する事です。新約聖書の時代、ユダヤ教の神殿では、神様にいけにえを献げました。

 パウロはその献げものについて、こう言いました。

ローマ『12:1「こうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。』

献げもと言う物は古来、いけにえを指しましたが、キリスト教ではお金や奉仕する時間などを献げます。パウロは、自分自身をいけにえとして献げなさいと言いました。これは、自身の持っているお金と奉仕する時間を献げることを指します。それは、神様から喜ばれる聖なるいけにえになります。神様が喜ばれるよう、神様から出た恵みの一部を神様にお返しするのです。

また、パウロは当時の俗世間の生き方や習慣に問題を感じているらしく、「この世に倣ってはなりません」と語ります。なにを問題にしているのかに注意しながらこのパウロの言葉を読んでみましょう。

ローマ『12:2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』

このまま素直に受け止めると、「私たちは、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえていない」という事をパウロは憂いていることになります。それでは私たちは、どのくらいわきまえていないのでしょうか。「心を新たにして自分を変えていただく」必要があるくらい、わきまえていないということだと読み取れます。パウロは、私たちのこの世の生き方や習慣を完全に否定的にみていることがわかります。しかし、

『11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。~』とパウロが証ししていますから、この世に倣う事を批判したと言うよりも、神様から出たもの つまり「御心に聞いて」という趣旨だと思われます。そして御心に沿うことで、神様に喜ばれることをする。そのことをパウロは求めているのです。そして、私たちが努力をしてわきまえるようになるのではなくて、神様が私たちを変えてくださるのです。神様の御心と私たちへの働きかけがあって、そして私たちは神様に喜ばれることが出来るようになるのです。

世に倣うとは、賢くそして無難に生きることなのでしょう。パウロはそのような生き方ではなく、神様によって信仰を頂いてその結果自分が生まれ変わって、神様の御心に従うこと。つまり神様から頂いた信仰に基づいた生活を求めたのです。

 

また、パウロは慎み深くあるようにと語ります。

『12:3 ~自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。』

 

「自分を過大に評価」とは「自分を誇りに思う」(フペルフェロネオー:ὑπερφρονέω)ことです。また、「慎み深く評価すべき」とは、原語を直訳すると「考えて、考えて評価する必要がある」となります。私たちは、神様から頂いた信仰が一人一人違う事に注意をしなければなりません。神様が喜ばれるのは、献げものの多さや良さではありません。神様が与えてくださった信仰に対する応答を神様は喜ばれます。ですから、献げものだけで評価してはいけないのです。神様が与えてくださったことを一人一人がどのようにして神様にお返ししたか、そのことを「考えて、考えて評価する必要がある」とパウロは語ったのです。

そして、パウロは人の体がそれぞれ異なる部位がそれぞれ違う働きをして、その働きが集合して一人の体となるように、一人一人のそれぞれ異なる働きがキリストによって結ばれて教会の働きとなると教えます。すべての信徒一人一人が教会という一つの体の一部であるとともに、必要でかつ大事な働きを担っていることをわきまえる必要があります。

ここでパウロは、具体的な奉仕について、この様に教えました。

『12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。』

 

どの奉仕も、他の奉仕と比べることが出来ません。それぞれが大切な奉仕です。そして、その奉仕は神様からそれぞれに与えられた恵みによって、異なった賜物となるのです。また、それぞれの働きの貢献度も比較することが出来ません。ですから、「自分を誇りに思う」根拠は、人との比較ではありえないのです。「自分を誇りに思う」ときがあるとしたら、それは神様から頂いた賜物を神様の業のために用いているときです。神様の御心にかなうように賜物を用いるとき、パウロの教える『11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。~』の言葉のように、私たちは神様の働きの中に組み込まれるのです。 

 

今日は、神学校週間にちなんで、奉仕のお話をしました。教会の牧師や主事の働きを担う人は教会では必要です。一方で、教会は多くの人の働きによって成り立っていますし、どの働きも必要でそして大切なのです。神様は、私たちに恵みを与えになっていますから、その恵みの一部を一人一人がお返ししてまいりましょう。神様の御心は、祈ってそしてよく考えてもすぐには分からないと思います。それでも神様に祈って、神様から頂いた賜物に気づこうとし、また用いられたいと願ったとき、神様に私たち自身を献げる恵みに与れるのです。

神様の御心を祈って、求めてまいりましょう。