ローマ5:1-11

 信仰による義

2023年 3月 26日 主日礼拝

信仰による義

聖書 ローマの信徒への手紙 5:1-11           

  おはようございます。受難節第五週となりました。来週が受難週となります。今日は、ローマの信徒への手紙から「信仰による義」と題してお話をします。さて、キリスト教では、「義とされる(δικαιόω)」と言う言葉を良く使います。これは、「正義」とか「罪がない」とかを意味する言葉です。かつては、旧約聖書の律法を守ることが義とされていました。ところが、パウロは「イエス様を信じる事」によって義とされる。つまり、人間の罪は無くなるわけではありませんが、イエス様を信じる信仰によって、罪を赦され「無罪」とみなしてくださると教えました。ですから、神様が義であることと、人間が神様の前で義であることは、そもそもが異なるわけです。

「神様が義である」とは,神様がその聖なる特性や神様ご自身の立てた約束に誠実であり、間違いを犯したり、法を破ったりすることはありえないという意味です。この義には、裁きの正しさ、公平さ、救い、恵み、憐れみなどの意味を含みます。この神様の義に対して、逆らうことはすべて罪であります。パウロが手紙で、「キリストによる贖いによって罪深い人間が義とされる」と教えているのは、正しくない者であるけれども、神様の前で正しい者とみなされることです。ですから、義とされることは「救われる」こととほとんど同じ意味となります。このように、わたしたち人間が義とみなされるのは、神様の憐れみの故です。イエス様を信じることによって、罪深い私たちが赦されたにすぎないのです。

 ですから、その義は神様からの贈り物と言えます。神様の義と、イエス様の十字架の犠牲があって、私たちの罪が贖われました。このように、義とは私たちの中にある正しさではなく、神様ご自身の正しさであります。それを何の代価も払っていないのに頂いているのです。そして、義とされるその理由はもっぱら神様からの憐れみであります。神様がその憐れみに満ちた性質から、私たちにただただ良くしてやりたいという思いで、私たちにご自身の義をくださったのです。

 そして、私たちが義と認められるのは、イエス様への信仰の故です。このイエス様への信仰こそが義とされる唯一の理由であり、それ以上には何も求められません。たとえ、イエス様が教えられたとおりに行動が出来なくても、それでも赦されているのです。私たちの中には、もともと義などは存在しません。だから、イエス様を信じ、イエス様にすべてをゆだねて、イエス様の義を受け入れことによって、私たちは正しくされるのです。決して、「良い行ないで、罪が贖われる」わけではないのです。神様は、私たちを義とするために、イエス様の血を代価として支払われました。そのことが無ければ、罪は赦されることもありません。神様は義しい方ですから、「私たち罪人の罪」だけではなく、「罪人である私たちを無罪とする裁き」も贖う必要がありました。神様の憐れみによるあべこべな裁きの報いをもイエス様に負わせました。ご自身の御子キリストが、「罪がないのに罪人としての」裁きを受けたのです。ですから、イエス様の十字架があってこそ、私たちは義とされるわけです。


パウロは、このように言います。

『5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。』

 私たちが信仰によって義と認められたことによって、神様との平和があります。全てを神様に委ねようと願いますから、神様の御心に逆らう考えなどはありません。事実、すでに神様の前では、罪人ではなくなったのです。つまり、神様との間に平和がやってきたわけです。ですから、私たちは、神様の御心によって導かれることを祈ります。その恵みによって、すべては「私たちの思うように」はなりませんが、神様の御心によって神様の栄光が示されます。また、神様の御心の通りになると信じ祈ることによって、私たちには平和が与えられ、そして将来に希望を持つことが出来るのです。


『5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』

 パウロは、「神様との間に平和があるために、希望がある」と言いました。それに加えて、たとえ苦難があったとしても、それは希望につながると言っています。ローマの信徒への手紙は、パウロの第三回伝道旅行の目的地であるギリシャのコリントで書かれていますから、パウロはそのころまでに色々の苦難を経験してきています。牢獄に入れられたり、命を狙われたりもしました。また、教会の中でも、派閥のようなものが出来るなど、苦労は多かったのです。しかし、パウロは耐え抜いたんですね。そして耐えるだけではなく、うまく対応できるようになってきました。「つぶされてしまう」と言うような心配ではなく、希望を生んだとパウロは言います。これはパウロの自慢話ではありません。パウロに耐えることが出来、希望が与えられたのは、「聖霊の働き」であると、パウロは証しているのです。

 『神の愛がわたしたちの心に注がれている』。

この言葉には、苦難にあっても、「私たちは神様に愛されている」とのパウロの思いが現れています。たくさんの励ましと力を神様から頂いていると感じているのですね。パウロは、耐えるだけではなく、神様からの愛に答えようと、誇りをもって行動したと言うことでしょう。「あなたは神様から愛されています」このことを知ってください。それだけで、心が軽くなります。そして、それだけではありません。私たちが生きているよりどころは、「神様から愛されている」ことであります。キリスト教徒は「神様から愛されていること」を誇りにして、喜んでいるのです。

パウロはこのように自分の事を証しました。

『5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。』

 イエス様は、「私たちがまだ弱かったとき」つまり、イエス様を信じて聖霊によって神様の義が私たちの中に入るその前に、私たちの罪を負って死んでくださいました。それは、全ての者の罪すなわち私たちが正しくないことをしたこと、そしてこれからも正しくないことをすることを赦すためであります。イエス様を信じる信仰によって、神様の前に義とされたならば、私たちの中には神様の義が入ってきて強められるのです。

 そして、イエス様は、私たちのために死んでくださいました。イエス様は、私たちに愛を示されたのです。イエス様は、義しい方であり、そして私たちを愛する神様でもあるからです。私たちを死ぬほどに愛してくださったのです。死ぬほどに愛すると言いましたが、現実的に考えると、義しい人のために死ぬようなことはほとんど考えられません。しかし、愛する人や良い人のために命を捨てる人はいるかもしれません。

 命を捧げるというのは、人間の中では大きな愛、最大限の愛によるものです。ただ、この愛は人間の愛であり、特定の人への愛でしかありません。ですから、神様の御心にかなう愛かどうかは、わからないのです。なぜなら、自分への愛のためかもしれないからです。一方で、神様の愛は、人の愛と比べることもできないほど、広く深いのです。神様は誰にでも愛を向けられていて、そして最も良い方法つまり私たちが思いもよらないやり方で、その愛の業をおこします。

 人間の世界では、親は「自分の子のために死ねる」と言うことはあっても、罪がない子に「人の罪を負わせて」殺すことはまずないでしょう。しかし、神様はそのことを選んだのです。これが神様の愛です。・・・神様は、独り子であるイエス様を愛していました。それでも、私たち罪人のために、イエス様の命という代価で、私たちの罪を贖われたのです。神様は、ご自身の御子を愛するように、私たちのことを愛して下さっているからです。

 イエス様を信じる私たちには、この神様の愛を聖霊が注いでくださっています。ですから、私たちは、神様から義とされている上に、神様の愛を頂いています。そういう意味で、イエス様を信じている私たちは、神様の栄光の只中にいる。だから、希望を抱けるのです。

 

 パウロは、イエス様の尊い犠牲について、さらに語っています。

『5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。』

 5:9の日本語訳の意味が分かりにくいので、直訳してみました。

「私たちは今、彼(キリスト)の血によって義とされたので、私たちは彼(キリスト)を通して怒りから救われます。」


 イエス様の命を代価に、私たちは赦されて義とされました。これは完全に義となった事を指すのではありません。罪で、あるままなのです。それでも、イエス様がとりなしますから、神様の前では罪を赦されたのであります。本来は裁かれなければならない私たちです。しかし、その裁きの時もイエス様が神様にとりなしてくださいますから、神様の怒りから救われるのです。私たちはイエス様のとりなしに委ねています。ですから、まだ裁きの時が来ていないにもかかわらず、すでに救われた!。罪が赦された!。と確信しているのです。


 5:10も同じように直訳してみますと、

「私たちが神様の敵であったとき、私たちが神様の独り子の死を通して神様と和解したなら、和解した私たちは彼(キリスト)の命を通して救われます!」


 神様の敵とは、神様の義に従わない者のことです。パウロは、かつて熱心なユダヤ教徒でしたが、キリスト教を迫害しました。明らかに神様の敵だったのです。しかし、パウロは、十字架上で死に、復活したイエス様と出会い、イエス様を信じたのです。これは、神様との和解を示します。戦いの時から平和な時となったのです。また、イエス様を信じたと同時に、イエス様の十字架の犠牲の賜物として、私たちの罪は神様の前で帳消しになったのです。こうして、イエス様は救い主として、救いの業を成就させました。イエス様ご自身が、神様の御心を受け入れ、そして犠牲になったからです。イエス様は義しいお方でありますから、神様に従ったのです。イエス様は神様を愛し、そして私たちのことも同じように愛してくださっています。こうして、私たちが知らないとき、知らないところで、イエス様の愛が働いています。このイエス様のお導きに感謝しましょう。