エフェソ2:20-22

 教会に仕える 

2020年 6月 28日 主日礼拝(予定稿)
当日は、柏兄(東京バプテスト神学校本科)宣教していただきました。(そう言う意味で没原稿です)

『教会に仕える』

聖書 エフェソの信徒への手紙2:20-22


 おはようございます。6月の最後の週から1週間、神学校週間です。コロナの問題で、教会の日程調整などが出来ない状態でしたので、今年の神学校週間は、特に準備できていませんでした。そういっている私自身が、昨年まで東京バプテスト神学校で学んでいましたので、その証も含めてお話させていただきます。今日の御言葉から教会のありたい姿と、私が牧師を目指した経緯とをあわせ、お話したいと思います。

 

 今日の聖書の箇所は、隅の親石です。意味は英語でcorner stone 文字通り、家を建てる土台の四隅に据える石を隅の親石と言います。どういうわけか、エフェソ2:20では、「かなめ石」と訳されています。実はkey stoneという、石造りのアーチ橋等の頂点に打つ、楔(くさび)がありまして、その石のことを「要石」と呼びますが、隅の親石とはまったく別のものです。隅の親石は、基礎のなかでも一番立派な石を選びますし、固い地盤の上にしっかりと据えられます。

なぜなら、その上に立つ教会の足元がしっかりするためです。今日のみ言葉を見ると、教会には、キリストイエスという隅の親石。そして、土台全体は使徒や預言者が据えられます。その上に神の家族である私たちの教会がある。そう書かれています。このみ言葉の中で、教会員は「私たち」と表され、ひとくくりです。「私たち」の全てが、神の住まいを建て上げるのに関って、それぞれの役割で教会を支えるということを指し示しているものだと考えます。

 

 連盟の執事/役員の働き というガイドブックの中で、「牧会」について、このように書かれています。

「牧会の働きの目的は、信仰共同体としての教会の交わりを形成することです。教会は聖書のみ言葉によって形成されます。そして、その土台はキリスト・イエスご自身です。」

土台がキリスト・イエスにあって、教会は聖書のみ言葉の働きで、できあがってきます。一つ一つの柱・梁はバラバラにではなく、信仰共同体として連なっているからこそ強い教会になるのだと言ってよいでしょう。なにしろ、隅の親石の上に柱が乗っかているだけでは、風にも、雨にも、地震にも耐えられないでしょう。

 教会は、個人の信仰の場所であるとともに、信仰共同体を通じた繋がりで、助け合って、そして励ましあっていく集まりです。そして、教会の牧会とは、そうした一人一人の信仰を共同体の働きで、適切な結びつきを図ることだと思います。そういう働きがあってこそ、教会は強く立っていくでしょう。 その牧会、信仰共同体である教会の牧会は、牧師をはじめとしたすべての信徒が担うもの。それが、プロテスタント教会の一般的な考え方です。

 

 そのことは、あの宗教改革者マルティン・ルターが、万人祭司という考え方で初めて取り上げました。わかりやすく言うと、ローマカトリックの司祭が持つ権威に、疑問を持ったからです。当時、ローマカトリックは、一般に免罪符(贖宥状)といわれる、札を売っていました。具体的には、16世紀にローマにあるカトリックの本拠地であるサンピエトロ寺院を建て替えるために、お金が足りなくて免罪符(贖宥状)を売ったわけです。罪を赦せるのは、神様しかいないはずなのに、ローマ法王が免罪符を売るということは、おかしいと思うのは、マルチン・ルターだけではありませんでした。聖書のどこにそのような権威が、書かれているでしょうか? 使徒、預言者、執事などに、民にみ言葉を語る権威があることは、明らかですが、他の権威については、書かれていません。聖書に倣うと、牧会は教会員みんなが参加して、行われることだと言えます。そういうことから、マルチン・ルターは、万人祭司を提唱しました。この意味は、聖職者に権威や身分を認めるのではなくて、すべての信徒は区別されないとの考えです。プロテスタント教会では一般に、御言葉を取次ぐ者たちを単に先生、奉仕者、僕(しもべ)、執事等と呼んでいますが、カトリックなどと明確に違うところは、御言葉を取次ぐという職であること以外に何の権威も認められていないことです。わかりやすい事例を言うと、結婚と離婚です。

 プロテスタント教会では、結婚は個人と個人の事柄として、役所に届けていても、いなくとも、事実として結婚を認めます。それが、離婚したことのあるカトリックの知り合いの話によると、結婚も離婚もローマ法王の許可制なんだそうです。許可を申請して、Noという答は今時はないそうですが、そのエピソードを聞くとローマ法王の権威がカトリック信徒の中に根付いているのだと思われます。

 

 牧師に対する日本バプテスト連盟の考え方ですが、牧師とは職分であって、身分ではないということです。牧師と教会員の違いは1点しかありません。日常的に御言葉を語り信仰の基礎を固めるのが、牧師の職だと言うことです。もちろん、執事さんなどで説教を担当できますし、証は教会員全てが負うことが出来ますので、信仰の基礎を固める仕事は牧師一人のものではありません。それでも、日常的に「御言葉」を語る役割を職として担うのは、牧師と言うことになります。一方で、「信仰共同体」のなかにあっては、牧師は1教会員です。この教会では、赴任している牧師と、選挙で選ばれた執事で執事会を構成しますが、発言権も、決定権も平等です。多くのプロテスタント教会では、「信仰共同体の運営」に民主主義が適用されます。ですから、牧会には「御言葉」を土台とした民主主義的な運営が望まれます。このことは、皆さんと今後よく話し合っていくことになると思います。と、言うのは、思いのほか複雑だということです。キリスト教は、神様の命令によって、教会を形成していますから、民主主義そのものではありません。逆に、「信仰共同体」が維持されてこその教会ですから、同意形成ができないと分裂を生んでしまいます。ですから、「御言葉」と「民主主義」が適度にぶつかり合うのが教会だと考えてよいかもしれません。

 

 まとめますと、牧師は、「御言葉」に責任を持つことが基本にあります。これは、宣教や証を誰かに依頼することも含めてのことと理解してください。そして、牧師を含む教会員は牧会に参与します。そこでは、「民主主義的」な合議制を基本とします。忘れてはならないのは、その土台にはイエス様がおられるということです。

「御言葉」の取次も「民主主義」の実践も、よくよくイエス様に祈った結果であることが必要な時があるのです。

 

 さて、3月8日に私が初めて、この経堂バプテスト教会で宣教したとき、献身の証を少しさせていただきました。神学校週間ということで、なぜ神学校に行き出したのかをお証させて頂きます。まだ、学生の時、牧師になろうと決心していた。そして、1999年に西南学院に学士編入する準備を始めていたと言うお話をしました。そして、腸を切り取ってつなぎ直すという思わぬ入院手術のために、それは前に進まなくなりました。神様は、私を用いる気が無いのではないか? と、ある意味絶望したわけです。それは、私が会社側に組み込まれる時期が迫っていたためで、退職の機会がなくなる、すなわち牧師になる準備が出来ないからです。2000年3月がその時でした。当時、九州バプテスト神学校等では、通信教育がありましたが、その時の私には、通信で授業を受ける時間的余裕はありませんでした。風力発電装置を多数建設する、ウィンドファームのプロジェクトマネージャーとして、毎週2,3カ所に出張し、時には現地で工事の進捗を図るなど、寝る時間を削って仕事をしていたものです。ほぼ一人でやっていましたので、後進を育てることもできずに、退職するには、ただただ、定年を待つしかなかったわけです。その後2001年に長崎教会から多良見伝道所に移ります。ここでは、私のために教会組織のための働きが、用意されていました。無牧師だったので、すべては教会員で決めていかなければなりません。そこで私が、「この伝道所での働きは、私への召命であると確信」したのです。そう確信するまでに、さほど時間はかかりませんでした。信徒が献身的に奉仕するのと、牧師として献身することに大きな違いはない。少なくとも、イエス様のご命令の答えている限り、「献身」であることにはなにも変わりはない。そのように、私は考えたのです。ですから、召命は牧師固有の事ではないのです。そして、召命に答えると、それは必ず成就するのだと信じています。実際2010年に教会組織が出来ました。

 2011年のことですが、転勤によって多良見で信仰生活をすることが許されなくなり、2012年に港南めぐみに転会。神学校に進むためには、教会からの推薦が必要ですから、多良見の牧師にそのことを説明して了解を得ました。2012年の後期から聴講し、2013年に東京バプテスト神学校に本科に入学し、2016年に卒業しています。そう言った経緯で、8年間、港南めぐみで奉仕が出来ました。教会まで1時間半かかり、日曜日と行事のある時しか教会に行けなかったのですが、神様はそれでもできる奉仕を与えてくださいました。細かいことを説明することは、できませんが、いろんな問題や課題に取り組みました。御言葉を土台とする教会であっても、決して常に盤石なわけではありません。その時々の問題や課題に対して、どうしていきたいのか?も みな意見は違います。意見が違うところから、どうやってイエス様のみ言葉に基づいた答えを導くか?そこに大変手間がかかります。しかしそれこそが、教会づくりなのでしょう。そこには、多様な意見が出される必要がありますし、そして良く聞いて、理解して、祈る時間も必要です。そういった、働きの一部を担うのは、イエス様からの祝福なんだろうな と思っています。そして、ようやく2年を置いて、2018年に東京バプテスト神学校の専攻科に入るわけです。奇蹟的に、専攻科神学のための環境が整ったということも後押ししますが、「私御言葉を語らせてください」と言う祈り、そして「私が23歳の時からイエス様は私を牧師とするために捕えられたのだ」と、「イエス様の召しが、気の遠くなるほど前からあった」のだとの確信となっていったのです。2017年11月に役員会に献身を申し出、12月にその承認を教会から頂き、その結果として、この教会の牧師としての現在があります。イエス様の導きに感謝します。