2025年 2月 16日 主日礼拝
「安息日を祝福せよ」
聖書 申命記5:12-15
今日の聖書は、申命記からです。申命記とはモーセ五書の第五番目の書で、死を前にしてモーセが民に語ったものだとされています。その中心がモーセの十戒です。キリスト教の理解では、このモーセの十戒は、律法による古い契約と位置付けられます。イエス様がこの世に降ったあとは、イエス様と私たちの間で十字架と復活による新しい契約が結ばれているからです。
そもそも、契約とは何を指すのでしょうか?現在の日本の法律によりますと、契約とは「双方の同意」のことです。つまり、契約には様式の指定はなく、文書を残す必要もありません。なぜなら、双方が善意をもって契約を実行すれば何も問題がないからです。しかし、人間は、苦しくなると善意を持った行動をあきらめてしまいます。たとえば、最近よく聞くのが、「三者で約束文書を交わしたけれども、いつまでと書いていなかった。だから、今、約束を守ろうと努力をしなくてもかまわない」という酷い考えです。これは、「三者間の同意」を一方的に切り捨てるものなので、そこに正義はありません。このような、約束を守る努力すら払おうとしない態度には、皆さんもあきれていると思います。これと同じように、人間は、神様との契約に対してさえも不誠実でした。神様との契約である「十戒」を守らなかったのです。そもそも十戒を守れないのに契約をしています。もちろん、十戒を守ろうとしても努力もむなしく守ることができなかった場合が多いでしょう。しかし、守る努力をする気がなかった人も、そもそも十戒などの戒めを教えられなかった人もいるのです。このなかで、最も「一番罪深く、不誠実で、神様をも恐れない」のは、契約を守る努力する気 すらない場合です。そこまでは、酷くはないにしても、約束を守れない事態は、いつでも起こりうるのです。それが人の罪なのだ と言うのでしょうか? ・・・人は罪から逃れられません。しかし神様は、このような不誠実な罪人である私たちをも救おうと、イエス様をこの世に降しました。
ところで、十戒ですが、十戒には番号が振っていません。ですから、読み方をどこで切るかによって、何番目の戒めかが違ってきます。私たちプロテスタント教会では、このように読むのが一般的です。
1.ヤハウェが唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9・隣人について偽証してはいけないこと
10.隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと
今日は、その第四戒の「安息日を守る」ことについてです。
まず、安息日とは何かを新共同訳聖書の語句解説を見てみますと、「週の第7日。太陽暦の金曜日日没から土曜日日没まで,モーセの十戒によって,神を敬うために聖別された休息の日と定められていた(出 20:8-11)。~」
そして、聖書に書かれている安息日の起源は、天地創造の記事(創1:1‐2:3)です。6日間の天地創造のわざを終えた神様は、休みました。その休んだ天地創造の第7日目を祝福し、この日を「聖」としました。この創造の記事の中には、「安息日」という言葉はありません。安息日という言葉を最初に使ったのは、マナの給食の時です(出16:23)。安息日を守るために「第6日には2日分のマナを集めなさい」との指示がありました。ここで注目したいのは、この出来事はモーセが十戒を頂く前だったことです。しかも、6日目にマナを集めることを怠った人々がいたので、出『16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。』と叱られているわけです。ということで、安息日は、モーセの十戒より以前から、あったのです。そして、その時すでに守らない人がいました。
モーセが十戒の契約を結んだ時、その第四番目に安息日の戒めが掲げられます。聖書は、神様の創造の業にまで立ち返って、その意義を語っています(出20:8‐11)。今日の記事でも、同じです。安息日を守る意義について、創造の業の意義に立ち返って、述べているわけです。
『5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。~』
神様の創造の業において神様が七日目に「休んだ」ことと、それをイスラエルの民が「聖としてきた」事実があります。ですから、安息日を守ることは、神様とイスラエルの民との関係を歴史的に刻んできた、しるしなのです。
そして、安息日にはもう一つの意義があります。安息日の戒めは、十戒の第四番目に位置し、神様との関係の戒め(第一、三戒)と人間との関係の戒め(第五戒―第十戒)とをつなぐ中間地点にあることです。安息日によって神様と、人間とが結び付けられているのです。ですから、安息日の戒めに「エジプトからの救出」が、神様による救いのしるしとして語られます。神様は安息日を「イスラエルの祝福のしるし」として戒めました。神様ご自身が、イスラエルだけではなく、全世界の人々を聖別する主であることを宣言しているのです。そして、キリスト教では安息日とイエス様の復活の日を記念して、日曜日を聖日にします。日曜日が安息日であり、神様への礼拝を守る日となったのです。
『5:14 ~あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。』
安息日を守るとは、どういうことでしょうか?私たちにとっては、日曜日の守り方が問われていると考えてください。安息日には、通常の仕事から解放されて、休息をとることが規定されています。その休息の仕方についても、いくつかの禁止事項があります。たとえば、火をおこすこと(出35:3)、薪を集めること(民15:32‐36)、食事を用意すること(出16:23‐30)などが禁止されます。つまり、食べる とか 礼拝する 等の命を保つうえで上で必要なこと以外は、すべて仕事だとして神様は禁止したのです。こうして、殆んどの労働を禁止したので、奴隷や、家畜にまで、休ませることができました。そして、必然的に安息日にやるべきことは、神様を礼拝することが中心となります。
イエス様の時代の安息日については、律法学者たちの権威主義によって本来の目的を見失っていたようです。それは、イエス様のこの言葉からもうかがえると思います。
マルコ『2:27 ~「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」』
イエス様の弟子、つまり使徒たちも、キリスト復活の日を「主の日」と定め、神様を礼拝しました。それは、パウロが第三次伝道旅行の帰りに、マケドニアからエーゲ海を渡ってトロアスに着いたときの記事にも書かれています。
使徒『20:7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。』
このときのパウロたちは、日曜日なので「パン裂き」のために集まっていました。「パン裂き」とは、主の晩餐のことです。このときパウロたちは、主の晩餐を守ると共に、夜中中礼拝をしていたのです。
出『20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。』
神様が、『安息日を守ってこれを聖別せよ。』と命令しました。安息日をいかに過すかは、「聖別」とはどういうことか、の理解にかかっています。「聖」という概念については、新共同訳聖書の語句解説を見ると、そもそもは、「神様の絶対的な尊厳を現す表現」であります。「聖である」とは、人間を含むあらゆる被造物が神様と隔たっていることを意味します。そして、聖所、「聖なる人たち」、などの表現は、神様のものとして清められたという意味で「聖である」と呼ばれます。そんなことから、使徒パウロは,キリスト教の信者を「聖なる者」と呼びます(ロマ 1:7など)。この「聖である」の意味によれば、安息日に礼拝を守り、神様によって清められるその時が「聖別」だと言えます。この点で、「安息日」とは、体力の回復以上に「心の回復」のための休息だと言えます。ですから、安息日を守ることに関しては、「聖別する」ことを優先しなければなりません。安息日を「聖別する」とは、罪と汚れから離れ、「聖」である神様に属するということであります。
『5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。』
今日のこの箇所では、「安息日は、『神様と私たちのつながり』を思い起こすためにある」ことが示されています。安息日は、神様がエジプトの奴隷を憐れんで与えた、休みの日です。これは、人道的な意義を持ちますが、それ以上に神様の救いの恵みであります。というのは、週に一日休む安息日は、かつて「エジプトの地で奴隷であったイスラエル人」を、神様が連れ出した救済の業を背景にしているからです。この救済の出来事を覚え、救いの喜びを記念し、神様の恵みに感謝して日曜日を迎えることを大切にしているのです。
私たちキリスト者には、主イエス・キリストによって、救いの恵みという安息を与えられました。日々このことを覚えてイエス様に感謝しましょう。そして、日曜日は特に、私たちが神様とつながる日です。イエス様が神様と私たちの間に入って、十字架の業によって神様とつなげてくださったのです。そのことを覚えて、日曜日を聖別してまいりましょう。