1.ファリサイ派の人々への非難
イエス様は、ここで、群衆と弟子たちに、律法学者たちやファリサイ派の人々を非難します。彼らの誤りを指摘して、反面教師としています。その要点は、三つあります。
①彼らは、教えるが、その教え通りには生きていない
『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。』
→ モーセの教え通り(そもそも律法の根底にあるのは愛)に生きなさい。
②律法(背負いきれない重荷)を強要する
『 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。』
→ 負いきれないものを、人に負わせないで、自分で背負いなさい
③彼らの栄誉が大好き
『 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。』
→『あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』
2.仕える者
これら三つの非難ですが、律法学者たちやファリサイ派の人々が陥っているこの姿には、共通の原因があるように思えます。それは、「何のために」生きているのか?につながります。
①仕えるため
教えるのは自分の役割。しかも、自分を含め人々に守るように戒めている。と 律法学者たちやファリサイ派の人々は言うでしょう。彼らの考えでは、教えと行いは一致しているのです。しかし、ここでいうモーセの教えは、しゃくし定規な人の作ったみてくれだけの「律法」ではないのです。そこには、私たちを導き、救おうとしている神様の愛があります。しかし、彼らは「律法」の根源にある「神様の愛の実践」という目的から目をそらし、「律法」のみてくれだけを要求したのです。彼らを反面教師として、「仕えるため」に人々に寄り添うことを、イエス様は教えているのです。
②重荷を負うため
律法を完璧に守ることは、金持ちにはできても、一般の市民には不可能です。しかし、律法学者たちやファリサイ派の人々は、容赦なく要求しました。情状酌量もしなければ、律法を守れるように手助けをすることもなかったということです。弱者を切り捨てるということは、「神様の愛の実践」から、大きく隔たっています。だから、イエス様は、「重荷を負うため」に人に寄り添うよう教えます。
③キリストのため
独り子イエス・キリストを与え、十字架に架け、裁かれ、信じる者を赦し、受け入れ、神の子として下さる天の父なる神様を知り、その愛に生きる。それは、「キリストのため」に生きることです。神様に背き、神様から離れ、罪の中にあった私たちを、キリストの十字架の贖いにより救い出されました。その恵みに感謝して、そして報いたいと願う私たちは、イエス様と同じように、十字架を背負う者となったのです。キリストのために生きる。それも「神様の愛の実践」であります。キリストのために働き、生かされていくときに、人の評価に執着することのない、神の栄光を求める歩みへと導かれていくのです。神の愛は、私たちを造り変えます。神の愛に生かされていくとき、私たちが変えられていくのです。
3.解説
「モーセの座」とは、神の掟である律法を教える権威が与えられていることを指す言葉です。
(Καθέδρα「カテードラ」というギリシャ語は、座席または椅子を指します。また、多くの場合、権威または教育の地位を意味します。例えば、カトリック教会では、司教座教会をカテドラルと呼び、使徒と同列とみなされている司教が中心となって、司教区を構成します。)
新約聖書では、特に宗教的または教育的な指導を行う場合に、教えや判断の権威を示すために「モーセの座」が使われています。「聖書の朗読」や「律法の教えを説く」ことに加えて、日常の人々のトラブルに対しても、律法学者たちとファリサイ派の人々は、律法の細則を用いて裁きを下す「裁判官」の役割も与えられていました。その「裁判官」の役割を含めて、「モーセの座」に彼らが座ったのです。
イエス様が、律法学者たちの目の前で「モーセの座に着いている。~しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」との教えは、皮肉のこもったものです。彼らは、「自分たちの権威のために」生きているからです。