1.真の割礼
聖書では「犬」を、悪い意味で使います。強そうな野良犬のイメージです。よこしまな働き手たちのことを犬どもと呼んでいるわけです。彼らは自分たちがユダヤ人であることと、割礼を受けていることを誇りにしています。そのようなユダヤ主義者たちは、パウロが行った先々ではどこにもいました。そして、パウロの教える事を落としめるように、異邦人も割礼を受けるべきである と教えました。
しかし、パウロが主張するように、体に受けた割礼よりも、聖霊に導かれて礼拝を守り、キリスト・イエスを誇り、人間のつけた「しるし」を頼みにしない者こそ、真の割礼者なのです。ですから、エルサレムの神殿がどんなに立派であっても、それだけでは「形」にすぎません。礼拝は「形」ではなくて、聖霊によって導かれるものです。聖霊によって礼拝する私たちこそが、真の割礼者なのです。そして、イエス・キリストが私たちのために犠牲になってくださったことを知り、そのイエス・キリストを誇っている私たちが、本当の割礼者だと言えるのです。肉の割礼ではなく、心の割礼こそ大事だからです。
2.肉に頼る?
『3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。』
パウロは、肉に頼ることも可能でした。つまり、血統的にもイスラエル民族であり、ヨセフの弟の血を引くベニヤミン族です。ほかに残っているイスラエルの民族は、ユダ族ですから、ヤコブとラケルの子として誇り高い民族なのです。このようにヘブライ人中のヘブライ人であるだけではなく、律法の通りに割礼を受け、ファリサイ派という当時もっとも勢力のあった宗派に属し、熱心にキリスト教を迫害した、バリバリの律法主義者でありました。・・・ただ、パウロはその肉には頼ることを、今はしていないのです。パウロは肉に頼るならば、すでに最高の権威を備えていました。しかし、パウロは、その権威を捨てキリストに従ったのです。
パウロは、もし、そのような肉のものを誇るのであれば、彼ら律法主義者よりも誇ることができました。また、神様への信仰もたいへん熱心であるがゆえに、キリスト教を迫害したほどです。そして、パウロは次に、「律法の義については非のうちどころのない者」と言っています。非のうちどころのないとは、ファリサイ派の律法の解釈に対しても、完璧に律法を守っていたということです。それは、「形」だと言えます。パウロはキリストに出会いました。そのときから、彼は、「律法は、肉に関することではなく、霊に関するもの」と知ります。「殺すな」という戒めがあれば、それは「殺したいと願う、心の状態」をも戒めているのです。その理解の上でパウロは、肉を誇ることが一切できなくなったのです。
3.十字架と復活
『3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。』
パウロは、肉に生きることとキリストに生きることを、比べています。パウロは、イスラエル人であることの誇り、ファリサイ派で得た教養、そして律法をきちんと守っているその人生を、キリストと出会った後の人生を比べています。そして、肉の光栄はみな、価値のないものであり、「塵あくた」とまで、言い切るのです。
ここで大事なのは、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」です。私たちクリスチャンが陥る過ちは、品行方正で清貧になることを理想として、無理をしてしまうことです。それが霊的にすばらしいし、美しい生き方と思っているわけです。これは、「自分がすばらしい」と自己陶酔しているだけですので、決して「キリストがすばらしい」との表現ではないのです。そこが、パウロが言いたいところなのです。
『キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』
パウロの生きる目的が変わったことが、ここに示されています。キリストに出会う前、彼の価値観は、自分がどれだけのことを行なったのか、というものでした。しかし、このパウロの言葉に注目してください。「キリストを得、キリストの中にある者と認められ」とあります。また、「キリストへの信仰による義」とあります。全ての価値は、キリストにあるのです。イエス様と共に生きたことに、価値があるし、目的であるのです。私たちは、「自分の行ない」の中に生きるのか、それとも、「イエスさまとの関係」の中に生きるのか、問われているのです。
そして、ここに「信仰に基づいて、神から与えられる義」とあります。私たちは、決して正しい者となることはありません。しかしながら、正しい者と認められてはいます。「正しい者と、認められ、数えられているけれども、実は正しい者ではない」、このことが重要です。ここを勘違いしてしまうと、クリスチャンになって、より正しくなろうとする努力で疲れてしまいます。私たちには、ただ、義とされるという望みがあるだけです。正しくなるのは、将来イエス様が再臨する時を待たねばなりません。