1.キリストの恵み
パウロは、自分が使徒となったのは、人々から出たことでもなく、人を通したことでもない、と言います。使徒となったのは、人(=エルサレム教会)による任命ではない。また、私が宣べ伝えている福音は、人によって教えられたのではなく、イエス・キリストの啓示である。「私が宣べ伝えている福音は、神様ご自身から出たものであり、キリストご自身のことばだ」、と言うことです。
偽教師たちは、エルサレムの教会を高く評価して、「あなたがたは、エルサレムで教えを受けたこの私たちの教えによって、信仰を保つことができる」、と教えていたようです。そこでパウロは、人からの任命は本質的な事柄ではない。大切なのは、イエス・キリストからの任命である。そして、死者の中からよみがえられたキリストから任命を受けた、と言っています。
この手紙の宛先は、ガラテヤの諸教会になっています。この手紙は、一つの教会に宛てられたものではなく、ガラテヤという一つの地域の中にあるいくつもの教会に対して送られたものです。当時のガラテヤには、偽教師がいて、「イエス・キリストを信じる信仰だけでは不充分である。その他に、あなたはこれこれのことをしなければいけない」、と教えていました。これに対し、パウロは非常に激しく反論しています。
そして次に、この恵みの中身について、パウロは語っています。福音とは何かが、この短い2節の中に盛り込まれています。
『1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。』
2.かき乱す者たち
『1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。』
私たちを招いてくださった神様は、キリストの恵みをくださいました。ところがこの神様を見捨てて、ほかの福音に乗り換えてしまったことにあきれ果てています。「ほかの福音」というところの「ほかの」というのは、「へテロス:ἕτερος」というギリシヤ語が使われています。異質のものという意味があります。つまり、福音と言っても、福音とは呼べないということです。 パウロは、ものすごい強い言葉「呪われるがよい」、を使っています。どれだけ、福音を変えてしまうことが恐ろしいか?パウロたちが宣べ伝えた福音に反することを教える者たちは、はねのけなければならないのです。
パウロが取り入ろうとしているのは神様です。父なる神が、使徒として任命してくだいました。ですから、神様のみを喜ばせることを求め、人の歓心を買おうとしてはいけません。
3.イエス・キリストの啓示
『1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。』
パウロは、自分が使徒となったことだけではなく、自分のメッセージもまた、「人間を通してではなく、イエス・キリストご自身が示してくださったものである」、と言っています。パウロは、ダマスコに行く途上で、復活のイエスさまに出会いました。そのイエスさまご自身から、福音の啓示を受けたのです。ですから、人から教わったことでもなく、純粋に神様からのメッセージを伝えているのです。
ここに私たちの学びがあります。人から教わったことだけではなく、福音の物語の中で、イエス・キリストご自身との出会いがなければならないことをです。もちろん、私たちがパウロのような啓示を受けなければならないということはありません。パウロが受けたこの啓示は、聖書という神様のことばの一部です。ですから、聖書を教える教会や人を通して、イエス・キリストを知ることができます。しかしながら、私たちは、イエス・キリストとの出会いがなければ、それは知識にとどまって福音にはならないのです。必ず、個人的に、人格的に、イエスさまに出会うことで、その知識はイエス様の恵みによって福音、よき知らせとなるのです。