ヨハネ16:25-33

 しかし、勇気を出しなさい

2024年 5月 5日 主日礼拝

しかし、勇気を出しなさい

聖書 ヨハネによる福音書16:25-33


 今日も先週に引き続きヨハネによる福音書からみことばを取り次ぎます。ユダが最期の晩餐の部屋を出て行ってから後、イエス様は、祈るためにゲッセマネの園に向かいます。その道すがらイエス様が弟子たちに教えているのが、今日の記事であります。そして、今日の箇所を書いたのは、使徒ヨハネではないとも言われています。それは、ヨハネによる福音書15-17章は、他の人によって書き加えられた との仮説によるものであります。

この時イエス様が教えたことは、14章◆新しい掟◆ペトロの離反の予告◆父なる神に至る道◆聖霊を与える約束15章◆イエスはまことのぶどうの木◆迫害の予告◆聖霊の働き◆悲しみが喜びに変わる。これだけ多くの事を教えました。もし、この部分が後日挿入されたと言うならば、今日の箇所はヨハネの教会の教えの核心部分だと考えられます。なぜならば、一度完成した福音書に挿入する必要性が出るほど、信仰理解が変わってきていたのだと思われるからです。そういう意味で、決してオリジナルの記事の方が価値があると言うのではありません。むしろ、ヨハネの教会の教えの特徴が色濃く現れているので、この記事の価値は高いと言えます。

また、このような編集の結果、福音書が充実し、内容もカラフルとなりました。言い換えれば、さまざまな人々のイエス様についての思い出や言い伝え、キリスト信仰の告白表現(福音理解)が、一つの福音書の中に、そして新約聖書全体に重層的になっているということです。ヨハネによる福音書の場合は、同じ福音書の中の一部として挿入されました。この重層化は、マタイとルカによる福音書にも違った形で見ることができます。マタイもルカもマルコよりも正統な福音書を編集しようとの目的で、マルコをベースに付け加えと編集が行われました。同じように、ヨハネの教会は、マルコ・マタイ・ルカの福音書では、不十分と考えたのでしょう。それで、自分たちの教会の福音書を著して、さらに改善をしたのだと思われます。それも、ベースの福音書としてマルコを選ばずに、オリジナルを書き降ろしました。そういう事情から、ヨハネによる福音書の視点は、共観福音書とはかなり違います。


今日の箇所を見てみましょう。冒頭から注意を払わなければなりません。

『「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。』

「これらのこと」とは、どのことをさすのでしょう? 後から挿入された部分なので、挿入部分(15-17章)のたとえを探してみてみましょう。すると、ぶどうの木のたとえしか無いことに気づきます。そして、挿入部分以外をさかのぼってみても、ヨハネによる福音書には、羊飼いのたとえくらいしかないのです。実際、ヨハネは、たとえをほとんど取り上げていないわけです。そうであるにもかかわらず、わざわざ「たとえについて」教えているところに、注目したいと思います。この「たとえ」の位置づけが、マタイなどの教会と違うのです。と言うのは、ヨハネによる福音書には、「たとえ」が一時的に用いられる手段であるとの立場をとっています。そして、最終的に教えは、直接教えて頂くようになる とのことです。その点は明らかに、マタイ、マルコ、ルカとは異なります。その前提ならば、「たとえ」よりむしろ、直接与えられるもののほうが大事なのであります。だからこそ、ヨハネはあまり「たとえ」を採用しなかったと言えるでしょう。ですから、このヨハネの記事が「これらの事」と呼んでいるのは、神の国についての教えを指している、と受け止めると理解を助けると思います。

 ところで、ヨハネが、「たとえ」をどのように考えていたのでしょうか?。

 まず、「たとえ」の言葉からです。ヨハネでは、パロイミア(παροιμία)と言う言葉を使っていますが、意味は 比較、寓話、や たとえ話です。一方でマタイなどで使っているのはパラボレー(παραβολή)。これも実は同じ意味なのですが、ヨハネが使っているパロイミアという言葉には、「霊的なものをぼんやりと明らかにするだけの比喩的な発言」との意味合いがあります。つまり、ヨハネは、「時が来ると明らかになることを、今、ほのめかすためにたとえが使われた」という立場をとっています。共観福音書では、「わかりやすくするために、そしてかたくなな者にはわからないように」と イエス様が「たとえ」を説明しています。イエス様のこの説明は、将来の事ではなく、その発言した時点の事です。それに対し、ヨハネは、「将来そのたとえが役割を終える」と 教えます。

『もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。』 と。

 その時とは、どういう時なのでしょうか?その手掛かりとなるのは弁護者の記事です。

 ヨハネ『14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』

 弁護者とは、聞いたことはありますか? 現代の弁護士と近いかもしれません。聖書には、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙一にしか出てこない言葉です。ギリシャ語でパラクレートス(παράκλητος)と呼ばれる当時の弁護者とは、裁判などで本人の側に付き添う人、擁護意見を言う者、助言をする者、助太刀をする人のことを指します。一方で、聖書で言う弁護者とは、救い主のことです。神様はイエス様を世に降しました。イエス様が、私たちに寄り添うようにするためにです。また、イエス様が天に昇っている今の間は、代わりに聖霊が共にいてくださいます。・・・だから、「たとえ」によらずとも、聖霊によって父なる神様について知ることが出来るのです。それが、ヨハネの教えです。

 そうしますと、今日の聖書の冒頭の言葉は、このような意味となります。「今まで、父や神の国の事を「たとえ」で暗にほのめかしてきました。ところが、今からは、聖霊が降るので、直接神の国の事を知るようになる。」と言うことです。

 イエス様は多くの「たとえ」で教えましたが、ヨハネはあまり「たとえ」を取り上げていません。それは、福音書の中で唯一、直接神様のことがわかるようになる 次の段階を告げているからです。ただ、そこには、疑問もあります。・・・それは、マタイ、マルコ、ルカの教会の福音書にそのような記事が無いことです。つまり、ヨハネの教会の教えが何故、マタイ、マルコ、ルカの教会に反映されなかったのか?疑問だということです。実際、ヨハネによる福音書が出来たのは、共観福音書から20~30年程度後のことです。また、ヨハネ自身、エフェソの町で牧会をしましたから、キリスト教会の長老、最後に残った使徒として中心人物であり続けました。そういった歴史的事実から、ヨハネによる福音書は、広く読まれていたということです。バラバラに書かれた文書を新約聖書としてとりまとめたのは、(紀元140年にマルキオンと言う人が最初です。しかし、この人は後に異端とされた。)紀元180年ころにエレナイオスが最初であります。その時にはすでに、四福音書は入っていますので、初期のころから正典として取り扱われていたものと思われます。

 さて、話題を戻します。この最期の教えの時まで、イエス様は弟子たちと一緒に行動していました。ですから、神様のことはイエス様が教えましたし、まだはっきりと言えない事は「たとえ」でほのめかしていました。今この場面で、イエス様は弟子たちに十字架の予告をし、その後復活し天に昇るとの予告までします。問題は、その十字架の時からしばらくすると、イエス様は弟子たちの前からいなくなってしまうことです。つまり、再臨の時までイエス様を待たなければならないのです。イエス様がいなくなりますと、弟子たちに寄り添うことも、「たとえ」でほのめかすこともできなくなります。その時のために、神様は、聖霊をお与えになると、イエス様は予告します。そして、その時が来ると、もはや「たとえ」によらずとも、直接神様からはっきりとした言葉が与えられ、神様のことがわかるようになるのです。イエス様が戻ってくるまでの間、心配であっても、聖霊によって平安が与えられるのです。

『16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」』

 聖霊が降る。その時から、聖霊が私たちを導きます。そして、私たちはイエス様の名によって祈ります。その祈りを、父なる神様が聞いてくださるのです。その私たちの祈りは、「イエス様のみ名によって祈ります」で最後を締めくくります。なぜならば、それがイエス様の命令であり、そしてその陰にはイエス様の祈りによる支えがあるからです。イエス様は、『わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。』と言いました。二重否定なので、読みやすく、「わたしの役割は、あなた方のために父に願うことである」と置き換えできます。イエス様にとって、私たちのために祈ることは当然なのです。なぜ当然なのか?です。それは、私たちが「イエス様のみ名によって 祈る」からなのです。「私は、イエス様を信じすべてをイエス様に依存しています。どうか助けてください。」との祈りに、イエス様は当然、執り成して下さるのです。なぜなら、私たちがイエス様を信じ、そしてイエス様を愛していることをイエス様は知っているからです。だから、「祈ってください」とイエス様にお願いしなくても大丈夫。むしろ私たちが「イエス様のみ名によって祈ります」と祈ることを待ち望んでいるのです。


 このイエス様の教えを聞いて弟子たちは、「イエス様を信じます」と信仰を告白しました。そして、・・・

『16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。』

この新共同訳では、「今」と言う言葉を「今ようやく」と訳しています。そのためにこれまで信じていなかったことが前提になってしまいます。しかし、ギリシャ語と文脈にあるニュアンスは、違っています。「今、あなた方は信じている」と、イエス様は弟子たちの信仰を認めたのです。

『16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」』


 イエス様のこの教えは、弟子たちに与える平和、勇気、そしてこの世のすべての悪に対する勝利の約束です。この時の多くの教えの大きなテーマは、当時、「強大な力と敵意」に囲まれている弟子たちへの励ましです。そもそも人間は、自身が置かれる不利な状況を目前にして、神様の力を必要とします。そして、神様はその必要を備えてくださいます。だから、「艱難がある」ことを知って嘆く必要はありません。そして、神様への信仰は、この艱難に置かれた悲しみでさえ、平安に変えてしまいます。恐れと愛、律法と約束、義と憐れみ、罪の感覚と赦し。このように艱難と平安は対となっています。神様は、どのような艱難に対しても平安を用意してくださっているのです。ですから、艱難にあっても大丈夫です。しかし、勇気を出してください。勇気を出すとは、神様の平安を盾にして、その守りを頼りに実際に立ち上がることです。受難の前夜の、この最後の言葉「すでに世に勝っている」は、ヨハネが繰り返し書きました(1ヨハネ5:4と黙示録2、3)。すでにに保証されているキリストの勝利は、そのまま弟子たちの勝利でもあります。そして、その勝利と平安は、私たちのものにもなるのです。しかし、勇気を出しなさい。聖霊に付き添われ、神様に祈り、そしてイエス様が執り成していることを知っていても、不安はあります。この恐れに打ち勝つ勇気が頂けるよう祈ってまいりましょう。