ルカ3:1-20

 ヨハネ教え始める

第二代皇帝  ティベリウス    在位 AD14~37年

ユダヤ総督  ポンティオ・ピラト    AD26~37年(歴史家ヨセフスによると36年まで)

ガリラヤ領主 ヘロデ・アンティパス   BC4~AD39年(歴史家ヨセフスによると37年まで)

大祭司    アンナス         AD6~15年(大祭司は、退任しても大祭司と呼ばれた)

       カイアファ        AD18~36年

       イエス          BC5?~AD30年

       バプテスマのヨハネ    BC6?~AD37年     この記事はAD29年か30年


1.ヨハネが立てられる

 祭司ザカリヤの息子であるヨハネに、神様の言葉が降りました。ヨハネは、ヨルダン川沿岸で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を宣べ伝えました。ヨハネの使命は、人々を罪から救い、救い主のもとに導くことでした。ヨハネは罪の赦しを得るために悔い改めの必要性を説き、水のバプテスマは、真の悔い改めであり、その内面的な清めと 悔い改めたとの外面的なしるしであると説きました。

イザヤ『40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。』


 つまり、救いの準備のために導かれやすくなるように、道をまっすぐにしたのです。これがヨハネの働き(伝道)でした。 

2.厳しいヨハネの言葉

 ここのヨハネの言葉は、あまりにも厳しく感じます。ヨハネの説教の要約でありますが、きつめに感じるとおりに、群衆とヨハネはあまり融和的ではありませんでした。ヨハネの話を聞きに来た大勢の人々は、大部分がファリサイ派の人々です。そのことをヨハネは知っていました。彼らは、血のつながりでアブラハムの子供であることを誇りに思っていました。それだけで神様に受け入れられると信じていたのです。しかし、良い血統にもかかわらず、彼らは心の中では毒を持ち、毒蛇のように隣人を傷つけ、最も隣人らしくないことをするのです。そこで、ヨハネは神様からの忠実な使者として、彼らが「毒蛇の子」であることを伝えました。さらに、「【来るべき怒り】、つまり【メシアの裁き】から逃れろと警告したのは誰なのか?」と問います。このような状況において、アブラハムの子であるから救われるなどと思い込んでいたのを捨てるべきです。そして、悔い改めにふさわしい実を結ぶように。そうしなければ、切り倒されて火に投げ込まれるからだ、と勧めています。悔い改めできないのは、聖霊の恵みが足りないからではありません。自分のこれまでの人生をよく見て、悔い改める事が自分の手でできる償いであることを示すためにふさわしいのです。もし、罪に対する悲しみが本物であれば、私たちの行いは直ちに改められ、かつてのような心の狭いことはしなくなるでしょう。さて、このように人間の本性とその堕落の問題を扱っているヨハネは、すべての信仰者の模範となっています。


 ヨハネは、どうすればよいかを問われます。ファリサイ派の人々が出来ていないことをヨハネは答えます。

『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』

これは明らかの伝道者への言葉です。イエス様も12弟子を派遣するときに、このように指示しています。

ルカ『9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』


そして、徴税人と兵士に対しては、直接的に彼らが罪を犯さないように指示しました。

『規定以上のものは取り立てるな』 

『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』


3.ヨハネはメシアか?

 ヨハネの説教が成功を収め、人々はヨハネがメシアではないのかと思い始めました。そこで、ヨハネはより偉大な指導者についてと その方の授けるバプテスマについて語ったのです。ヨハネは、後から来る偉大な指導者について、「靴ひもを緩めるに値しない」と言う言葉で、比較にならないほど偉大だと強調します。つまり、「ヨハネはメシアではない」ことを説明しました。偉大な指導者であるメシアは、聖霊と火による洗礼を人々に授けるという偉大な業を行うことを説明します。この聖霊のバプテスマは、メシアの派遣を特徴づけるものです。一方で、メシアは権威を行使し、裁きを執行するのです。メシアは、その箕でもって麦と籾殻とを分け、福音を拒否して無価値であることを示す者は、消えない火の中に追いやられるのです。

 ヨハネはヘロデ・アンティパスから宮廷に招かれ、やむなく「宮廷説教師」となります。わかりやすく言えば、ヨハネは捕まったのです。ヘロデ・アンティパスは、肉親の妻を奪って妻としていましたから、ヨハネは、そのことについて、厳しく批判をしていました。にもかかわらず、ヘロデ・アンティパスはヨハネを殺さずに、時々呼び出しては、話を聞いていたのです。