ルカ9:18-27

 ペトロ信仰を言い表す

 

1.ペトロ信仰を言い表す

 イエス様は、一人で祈っていました。その時弟子たちは、共にいました。聖書は細かいことを書いていませんが、弟子たちが共に祈っていたのならば、そのように書いていたはずです。推測にすぎませんが、一緒に祈っていたのが、弟子たちが祈り終わっていて、イエス様の祈りが終わるのを待っていたのでしょう。もしくは、本当にイエス様が一人だけで祈っていて、そこに弟子たちが迎えに行ったのでしょう。「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とイエス様が命令される直前の祈りですから、十字架の出来事の後の弟子たちが自立するよう、祈っていたのかもしれません。そうしたら、やはりイエス様は、一人で祈っていたのだと言うことです。またマルコの並行記事を見ると、ここにいる弟子はペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけです。12弟子がそろっていると言う前提ではなく、弟子の中でも中心的な者への質問ですから、弟子たちの覚悟の程度や、理解の程度をイエス様は聞きたかったわけです。そうすると、イエス様の祈りは、弟子たちの現在を憂いて、近い将来の十字架のときに、ついてこれるように祈ったのだと思われます。


 「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とのイエス様の問いがありました。これは、たぶん聞きたかったことではないと思われます。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」こちらの方がイエス様が本当に聞きたかったことでしょう。おっちょこちょいのペトロですから、すぐさま迷うことなく、「神からのメシアです。」と答えました。ただ、メシアと言っても、政治的な解放をする者を当時の人々は待望していました。ですから、キリスト教で言う「救い主」(:私たちの罪を贖うために十字架にかけられ、そして復活して私たちに永遠の命をもたらしてくださったイエス様)とは異なる者と言えます。


 ぺトロは、イスラエルの民がそうだったように、やはり政治的にローマから解放する預言者としてイエス様に従ってきていた可能性が高いです。だから、神様の思いなど知らずに、自分の願うことがその通りになることを願っています。イエス様は、十字架での死という自分の役割を神様から与えられています。神様の思いを知っているイエス様は、それを受け止めるために苦しんでいます。そして、残される弟子たちが自立するか心配で、神様に祈るしかありませんでした。一方で、ペトロは神様の思いではなく、自分の思いを成就するために、何ら苦しむこともなく、イエス様に従っていたのです。でも、決意だけは立派でした。すべてを捨ててイエス様についてきたのです。でも、それは見せかけだと言えます。実際のところ、自分の都合、自分の希望のためにイエス様を利用していたのだと言えます。この構図である限り、イエス様が死んだあと、ペトロはイエス様の教えた神の国を宣教することが出来るのでしょうか?


2.イエス、死と復活を予告する

 イエス様は予告しました。これは、預言ではありません。イエス様は神様だから、神様の言葉を預かって代理として語る必要がないからです。

 

 ペトロが、イエス様の事を「神からのメシア」と証しました。これは、正しい答えです。しかし、メシアの役割への理解がイエス様とペトロの間で異なっていました。イエス様は、そのことは触れずに、だれにも話さないように命じました。そのようなことを言い出すと、大変危険だからです。実際に紀元後6年頃

ローマへの反乱がありました。ガリラヤのユダが起こしたもので、「イスラエルの王様は神様なので、ローマに税を納める必要がない」との主張で人々を集めました。もちろん、ローマに制圧されてしまいます。ほかにも、宗教を理由に 預言者を装って 人とお金を集めた事例もあります。ローマは、経験上反乱がおきそうになると、早めに手を打ちます。そういう時代背景がありますから、「メシア」と言う言葉をイエス様の群れが使うこと自体、かなり危険な事でありました。実際、ファリサイ派の人々はローマの手下として、政治と宗教で実権を握っているわけですから、すでにイエス様の教えるところはいつも見張られています。


 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」


 イエス様は、このように予告しました。ペトロへの答えであります。そもそも、このことをイエス様が祈っていたのです。そして弟子たちのことも祈っていたので、この言葉もペトロへの答えであります。


 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」


 イエス様は、ペトロの思っているような反乱を指導しに来たのではありません。それどころか、排斥されて、死んでしまうとイエス様は言われたのです。ペトロの思いは、成就しないとイエス様は宣告したわけです。そして、ペトロに自分を捨てるように言います。自分のしたいこと、自分の思いでイエス様に従うのではなく、イエス様が与えるペトロの役割を担って従う。そのことを伝えます。自分の命を惜しんで従わない者は死んでしまい、イエス様のために命を捨てれば、かえってその命が救われるのです。それは、永遠の命です。滅びることがなくなるのです。


『9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」』


 命を落としてしまえば、世界中を手に入れても何の得にもなりません。イエス様の言葉を恥と思うならば、イエス様は、復活のときにその人を恥とします。イエス様のどのことばでしょう?


「 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 この言葉は、すぐに神の国が来て、その人が十分な程度長生きならば、何も矛盾はしません。恥とする可能性があるのは、「神の国を見るその時が来る」と言う考えの方です。

(「ヨハネがその人」等との説をとるよりも、「イエス様の復活とイエス様への信仰によって、永遠の命を得る人がいる」と考えたいです。)