ヨハネ9:1-17,35-39

盲人を癒す

 光と闇は、ヨハネによる福音書では、大切なテーマとして何度も取り上げられます。

◆イエスの言葉による裁き

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」※※κρίνω:判断する、決める(動詞)

1.目が見えない者を癒す

 『「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」』

 この問いは、「罪を犯して天罰があった」から、との前提に立っています。実際に、このような考えを持っているならば、障害を持った人は、その不自由さと罪人または罪人の子として蔑まれることの両面から苦しむことになります。イエス様は言いました。

『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』

すべての人は、どんな障害があろうとも、神様が望んで作られたのであり、そして、全ては神様の栄光を表すために存在しています。

『だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。』

世の光としてやってきたイエス様ですが、十字架と復活ののちに、天にあげられました。そして、再臨するまでの間に夜がやって来るわけです。もちろん光であるイエス様が地上にいなくなるだけではなく、迫害の時代のことを予告しているものです。

 目が癒された人は、そのことを人々に伝えましたが、人々は信じませんでした。その後ファリサイ派の人々の所に連れて行かれ、同じように伝えましたが、誰も信じません。この人たちは、肉体の一部である目は見えるものの、心の中は闇であり、光を遮ったままなのです。ファリサイ派の人々は、その元盲人を追い出してしまいます。

2.ファリサイ派の人々の罪

  イエス様は、追い出された人に出会います。そして、「あなたは人の子を信じるか」と 唐突に聞きます。人の子とは、イエス様が自称する言葉です。もちろん、そのような言葉は一般には使いませんから、誰のことなのか分かりません。人の子とはイエス様の事だと教えてもらい、この人は「主よ、(原文にはこの語がある:「畏敬の念をもって」)信じます」と答えました。ここでの主は、主人と言う意味ではなく、全ての権威を持っている神様に対する呼びかけだと言えます。

『9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」』

 この言葉で、おや? と思わないでしょうか? 「私はその者を裁かない」(12:47)と言っているし、

『8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。』とイエス様は、言っています。

実際にイエス様は裁いていません。原語を見ると、クリマ(κρίμα:非難、判決、天罰(名詞))を使っています。ですから、イエス様は判断して決めるのではなく、神様の判断を伝え、その結果に立ち会っていると言う立場だと言えます。目の見えない人は、神様の判決によって、目が見えるようになったのです。イエス様はその執行に立ち会いました。そして、このイエス様の業を信じなかったファリサイ派の人々は、暗闇の世界にいるので、目の前に起こったイエス様の「しるし」を知っていながら、イエス様を信じなかったのです。これは、目が見えないのと同じであります。

 こうして「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」のです。

3.光と暗闇

 イエス様は、光として神様がこの世に降されました。イエス様は、その事についてこのように説明しています。

『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。』


『1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。』 

イエス様は、この言です。また『1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』のです。