コリントの信徒への手紙一6:1-11

訴え出ないで


1.正しくない者との戦い

 同じ信仰を持つキリストの教会に属する者は、互いの義と聖について配慮しあう責任を持っています。

『6:9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』

 私たちは、キリストの名による救いを受けるまで、「正しくない者」でした。このリストに上げられるような罪を犯していなくても、罪に生きていた事に違いはありません。しかし、今は、

『6:11 ~しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。』

このように私たちは変えられたのです。「正しくない者」の多いこの世から召し出され、キリストの名と神の霊により、聖なる者とされたのです。これは、終末における救いの完成、聖化の完成を先取りしたのであって、すでに変化したわけではありません。わたしたちは、依然として罪の世に生きています。そこに「正しい者」とされている者の信仰の戦いがあります。教会の「外部の人々」の罪を問題にし、その交わりを断とうとするのではなく、教会の中にある罪と戦うのです。

2.コリントの現実

 コリントの教会は、問題の本質を誤解していました。「聖なる者」としての共同体は、自らに課した規準であるキリストの教えをもって、自浄能力が働くべきです。しかし、コリントの信徒たちは、教会員同志の間で起こった争いを、この世の法廷に持ち込んで決着をつけようとしました。それは、「キリストへの信仰を持たないこの世の人々の法廷に訴え出る」ということを意味しています。

(注:ここで、パウロはこの世の権威と法を否定しているのでありません。)

 「日常生活にかかわる争い」とは、信仰の友同志の「金銭的な貸し借り」の問題であったと思われますが、それを教会の中で解決できず、法廷に持ちこんだようです。それほど、コリントの教会は知恵も会話もなかったようです。そのことを、知恵を誇るあなたがたには恥ずべきことであると言っています。

 キリストの救いは、世に勝つ救いであり、私たちは、その信仰を持っているはずです。それは、世の終わりのときには、キリストと共にこの世の不義を裁く者として立つ者だからです。ですから、キリスト者がその信仰の仲間をこの世の法廷に訴え出るのは、まるで逆転しているのです。『教会が世に敗北していることの証明であり、恥ずべきことである』とパウロは言っているのであります。

3.パウロの提案

 教会の中で信徒同志の問題が時々おこることはあるでしょう。それが、時には教会全体を巻き込む問題に発展することもあります。パウロは、コリントの教会に対して

 『あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。』

と問うています。これは、現代の私たちの教会にも通じます。金銭的なトラブル等で信徒同士が訴え、争うほど醜いことはありません。そうした事が起こらないように、注意と慎重さが必要です。また、万一そういう事態になったとしても、「裁判沙汰」にするのは、教会としては痛手でしかありません。伝道の業を進めるうえで、愚かとしか言いようがありません。ですから、パウロはこう言います。

『そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです』

 教会がそんな状態では、この世に勝利するどころか、この世に裁きを委ねることは教会が世に裁かれるのと同じであります。借りた者がお金を返さないことは「不義」です。教会員同志の金銭上の貸し借りの問題を、この世の法廷に持ち出して争うのは、教会で「不義」がまかり通っていることを、さらけ出すことになります。教会の恥をさらし、教会のなかの「不義」と解決能力の無さを示すことは、教会にとっても教会員にとっても、失うばかりで何ら得るものが無いのです。それであればと、パウロは提案します。

『なぜ、むしろ不義を甘んじてうけないのです』(不義を受けなさい≒債務不履行を受け入れる?)

 パウロは、この問題を「みだらな行い」と同列においていません。お金を借りた者が返さなくてよいといっているのでもありません。キリストに救われたもの同志が争い、その裁きを神様にではなく「正しくない人」委ねることを恥じ、あべこべな姿を問題にしているのです。「正しくない者」、すなわち、悔い改めておらず、キリストを信じていない者が神の国を受け継ぐことはないのです。その「正しくない者」に教会の中で起こった信者同志の争いの判決を求めることは、「終末の日に裁く側に立つべき者」が、「正しくない者」から裁かれる矛盾を起こすと、パウロは指摘しています。

 そして、「正しくない者」を列挙し、教会にいるこのような「正しくない者」も「決して神の国を受け継ぐことができない」とパウロは語ります。教会の中にあっても、罪人としての生き方を変えようとしないキリスト信徒も神の国を受け継ぐことができないのです。ここに示されるような罪を一度でも犯した者は「決して神の国を受け継ぐことができない」と、受け止めてはいけません。「あなたがたの中にはそのような者もいました」という事実をパウロは認めています。確かに以前はそういう罪の生活をしていたかもしれませんが、今は違います。私たちは、キリストによって、聖なるものとされているからです。

『主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされている』

パウロは、このことを自覚して新しい自己のあり方のもとに生きるべきことを語っているのです。それこそが教会が世に勝ち、世の尊敬を受け、福音宣教において力となることを教えていると言えます。

教会がこの世の一般レベルよりも 知恵、調整力、包容力、倫理 において劣っていたのでは、教会自身が救われませんし、この世にキリストを証する教会として立っていくことができなくなります。パウロはこれらの言葉によって、教会が自浄能力を持つように促しているのです。