使徒13:13-16,37-43

 証による伝道

2022年 7月10日 主日礼拝

証による伝道

聖書 使徒言行録13:13-16,37-43

 今日は、パウロの第一回伝道旅行の後半の記事からです。パウロは、キプロスの訪問を終えると、キプロス南西の港パフォスから、まっすぐに北に航海して、パンフリア州のペルゲと呼ばれる港町に向かいます。ここで、同行していたマルコと呼ばれるヨハネは、帰ってしまいます。ヨハネが帰ってしまった原因は、わかっていませんが、パウロがこれから向かう先々で受けた迫害を考えると、伝道旅行を続けることに懸念があったのかもしれません。パウロとバルナバが拠点としていたシリア州のアンティオキアがローマ第三の都市(第二はアレクサンドリア)であり、セレウコス朝シリアの首都でありました。一方で、ピシディア州のアンティオキアは、各地にある国王の名を冠した町の一つでしかありません。素朴な田舎であります。ですからパウロが向かおうとしているアンテイオキアの人々は、保守的だと思われます。さらに、キプロスなどとは異なり、まだ伝道者が入っていなかった地域なので、本当に最初の訪問なわけです。ですから、新しい教えを受け入れてくれるか心配があったと思われます。しかし、杞憂でした。アンティオキアの会堂に行った時点では、会堂長たちがパウロ一行に対して、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と声をかけますから、普通に歓迎していることがわかります。

 パウロはそのとき、イエス様の事を証ししました。その結果、『13:42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。』とあるほど、多くの人々がパウロの話を受け入れ、イエス様を信じました。しかし、このことは皮肉なことになります。パウロの人気や活躍を妬むユダヤ人が、パウロたちを迫害するきっかけとなったのです。

 さて、パウロは、イスラエルの人々と神を畏れる人々に向かって、話し始めました。この人々は安息日に礼拝を守りに来た、ユダヤ教徒(生まれながらのユダヤ教徒+異邦人の改宗者)です。それから、ユダヤ教徒ではありませんが神様を信じる者(改宗をしていない異邦人の信徒)です。これらの人々に向かって、パウロは歴史を振り返りながら、イエス様のことを証ししました。

 今日の聖書の箇所は、長くなりすぎるので、真ん中を割愛しました。割愛した部分は、「神様がイスラエルの民をお選びになった」ことから初まります。神様は自らの意思で選んだイスラエルの民族を強大なものに育て、エジプトから導き出したこと。そして40年の間の荒れ野での生活の後、約束の地であるカナンをイスラエル民族の土地としたこと。それまでの450年間、国王を定めずに、神様は直接民を統治されたのです。そして、預言者サムエルの時、民は王様を求めたので、40年間サウルを王としたことを説明します。これは、イスラエルの民ならば、皆が知っている事であります。そして、神様はダビデを2代目の王様にしました。神様は、ダビデが忠実であることを見て、こう約束をしたのです。

 サムエル上『89:4 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った89:5 あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」〔セラ』

 パウロは言います。『13:23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。』

もともと、「ダビデの子孫に救い主が生まれる」との伝承をイスラエルの民は信じていました。ただ、ダビデの末裔と言ってもイエス様で26代目ですから、たいへんな大人数になるわけです。ですから、救い主が誰の家で生まれるのかも、いつ現れるのかもわかりませんでした。そんな手掛かりがない中で、パウロによって「既に地上に救い主が来ていた」ことを知らされたわけです。そして、この救い主についてパウロは、このように言います。

『13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。』

 パウロ自身が、イエス様を認めずに、罪に定めたその張本人一人でした。しかし、今は、イエス様を救い主と信じています。そしてパウロは、「イエス様を罪に定めることによって預言者(預言書の事)に書かれている預言が成就した」と、神様のご計画であったことを知ったのです。

成就した預言とは、イエス様の十字架刑のことでした。なんら死罪を求められるような罪を犯していないのに、イエス様が十字架にかけられたのです。決して、イエス様を死罪にしろと訴えた人々、そして死刑を決定したローマ総督ピラトが悪いのではありません。これは、神様が計画されたことなのです。神様が計画し、そして預言者が語り、そしてその聖書の言葉は礼拝で読まれてきた。そのようにパウロは説明します。

 旧約聖書に書かれているイエス様にかかわる預言が成就した十字架の出来事の後、人々はイエス様を墓に葬りましたが、神様はイエス様を死者の中から復活させました。パウロは、イエス様の復活についても証ししました。また、その不思議な出来事を信じてもらう為に、証人が沢山いることも伝えました。

 復活したイエス様は、ガリラヤやエルサレムで、弟子たちの前に姿を現します。復活したイエス様の姿を見て、12弟子やパウロを始めとする者は、イエス様に会ったことを証しする者となったのです。その証しは、「神様からの約束が成就した」ことを証明する目撃情報そのものであります。そして、パウロは、「この良い知らせこそが、福音である」と確信したのです。

 

 さて、パウロはここでイエス様への信仰を証しします。

 

 『13:37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。13:38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』

 私たちの常識からいうと、肉体の命がうばわれたら、もう復活して生き返るという事はありません。そして、命が奪われると、肉体は朽ち果てるしかありません。しかし、神様はイエス様を死から復活させました。そして、イエス様は復活後も食べ物を食し、そして息をしていました。そうして幾日間も弟子たちと一緒にいたのです。パウロ自身もダマスコの町で、復活したイエス様に出会います。ですからパウロは、「生き返ったのち、朽ち果てることもなく、永遠に生きておられる」と証ししているのです。なぜこのような証 「死んだ人が生き返って、永遠に生きる」というような証ができるのでしょうか? パウロは、「イエス様が神の子であり、救い主である」と信じているからです。旧約聖書に預言されていた、「罪がないのに人々の罪を救い主であるイエス様が背負った」ことが成就したと、パウロは信じたのです。イザヤ書にはこのように予言されていました。

イザヤ『53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。』

 パウロは、モーセの律法を守ることに熱心でした。かつては、その律法が自身を義(ただ)しいとしてくれるものと考えていました。しかし、イエス様に出会った後のパウロは、イエス様を信じることによってのみ義(ただ)しいとされると信じたのです。なぜならば、イエス様はただ一度だけ、人々の罪を贖うためだけに死なれ、そしてその死を克服されたからです。人類の最初の人であるアダムの時から、私たちは私たちの罪のゆえに「死ぬこと」から免れることはありません。イエス様は、一度死なれました。しかし、イエス様の罪のためではなく、私たちの罪を贖うために死なれたのです。罪がないのにそのようにされたイエス様です。このイエス様を、神様は私たちのために与えてくださったのです。

 イエス様は、私たちの為に尊い犠牲となりました。しかも、それだけではありません。イエス様は、私たちの、いいえ「私の罪」を赦してくださる方であります。私たちは、どんなに立派にモーセの律法を守っても義(ただ)しい人、すなわち義とはなりませんでした。しかし、イエス様の十字架の出来事が成就してから後は、イエス様を救い主として信じる事によって、私たちは義(ただ)しい人となれるのです。どう逆立ちしても、罪から逃れられるわけがない私たちですが、イエス様はその私たちの罪を贖うためにこの地上に降って来ました。そして、私たちの罪を贖った結果、私たちの罪は許されたのです。パウロはこう証しします。

『13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』

この言葉は、パウロの信仰体験そのものです。パウロは、ダマスコでイエス様に会うまでは、イエス様の弟子たちを迫害していました。その理由はパウロが大事にしている律法を時として守らなかったからです。律法を厳格に守るファリサイ派に属するパウロはそれが許せなかったわけです。しかし、パウロは知っていました。律法と言う名の「人の作った規則」を守っても、神様を愛しそして、隣人を愛していることにはならないことを・・・。ですから、パウロ自身イエス様の弟子たちを迫害することをやめてしまったのです。すべては、復活されたイエス様に出会い、救い主と信じたことによります。イエス様を信じたとき、パウロはイエス様からこれまでの罪を赦されました。イエス様の弟子たちを迫害した罪を含めて全てのパウロの罪が赦されたのです。そして、律法がパウロに与えてくれなかった義を、イエス様から頂いたのです。イエス様は、ご自身を虐待していたパウロさえも、その信仰を認めて、義(ただ)しい人としてくださったのです。パウロにとって、「イエス様を信じる」この事だけが、義しく生きる第一歩でありました。そして「イエス様を信じて全てをゆだねる」ことによって、パウロは全く新しい人生を歩み始めることが出来たのです。それも、強いられたからはなく、感謝のうちの歩みだったのです。

 パウロは語ります。神様は、イエス様の十字架と復活の業による救いを用意されました。そして、イザヤの預言する裁きの時があることを・・・。その言葉は次の通りです。

イザヤ『29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」』

 

 会堂に集まった人々は、このパウロの証しを聞いて、イエス様のことを信じました。こうして、パウロはキリスト教がまだ伝わっていない地方に、イエス様を信じる信仰を広めました。パウロが話したのは、信仰の証しです。この証しこそパウロが伝道の根幹でありました。私たちも、日常の信仰生活のなかで証しを必要としています。証しを聞くこと、そして証しをすることの両方が必要です。そして、その証しがクリスチャンとして生かされる大きな原動力となりますし、伝道そのものとなります。礼拝のなかで証をすること、感話会(教会学校の情報交換コーナー)でミニ証しをすることも歓迎します。ちょっとした、立ち話でも証しを聞いて、自分も証しをする。そういう教会となるよう祈ってまいりましょう。