1.キリストによって新しく創造される
パウロが手紙を書くときは、口述筆記でした。自分で書くのではなく、自分が言ったことばを、他の人に書いてもらっていたようです。しかし、ガラテヤ書は違うのでしょう。「大きな字で」と言っていますが、ここからパウロは目が悪かったのではないかと推測できます。この手紙全体が、大きな字で書かれていたのか、それとも、ここの文が大きな文字になっているのかは分かりません。最後のことばとして、パウロが直接書き残したことを強調して、ガラテヤの人の興味を引こうとしています。
『6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。』
パウロは、偽教師たちの本心をあばきました。なぜ彼らがあんなにも、割礼に固執するのか。それは、良く思われたいからだ、と言っています。そしてまた、迫害を受けたくないからです。これは、肉の思いに支配されているとしか言えません。信仰が第一ではなく、肉の思いから教えを曲げていたと言えます。
この点は、私たちクリスチャンは気をつけなければいけません。私たちは、キリストの十字架を信じたことによって、もっとも自由な者となりました。何にも囚われることのない、キリストにある自由を得ました。ところが、偽教師たちは、信仰ではない「肉の思いに始まる外見的行ない」による正しさを求めています。義と認められる制度を作り、その制度をつくることで、自分自信を見かけだけ救っているのです。キリストを信仰し、礼拝するために教会に来ているのに、教会にはさまざまな規則がある。目に見えない束縛がある。そんなことで、教会に来るとキリストが見えなくなるのです。何がいけなかったのか?それは、この世的な価値観を守ることを 声の大きい人が指導したからです。つまり、私たち信仰者がそれを譲ってしまったのです。しかし、決して屈してはならないのです。それは自由を保つためです。
『6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。』
割礼を受けさせた人たちは、律法を守らせようとする純粋な動機からではありません。むしろ、ガラテヤの人たちに割礼を受けさせることによって、ユダヤ人の仲間の中に誇って見せたかったからです。キリストを知らないユダヤ人に認めてもらうため、ただ数を数えるために割礼をさせているのです。
『6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』
私たちは、キリストの十字架を宣べ伝えることによって、自分自身を、そしてこの世を罪に定めてしまいます。そして、このメッセージを聞いたこの世の人々は、私たちを責めようとします。それが、「はりつけにされているのです。」が示す意味です。
『6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。』
新しい創造とは、つまり、聖霊によって新しく生まれることであります。「だれでもキリストにある者は、新しく造られました
二コリ『5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』
キリストによって新しくされたこの歩みが大事なのであり、割礼という外の傷は大事なことではありません。私たちはただ、「キリストにあって、神の子どもである。」という真理を保っていかなければならないのです。
2.最後の挨拶
『6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。』
キリストの十字架のみを誇りとする人に、パウロは 平和とあわれみがありますように、と祈っています。神のイスラエルというのは、キリストを信じるまことのイスラエル人という意味です。キリストの十字架を誇っている人には、平和と憐れみが満たされます。
『6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。』
ガラテヤの偽教師たちは、割礼を誇りとしていました。そのような外見上のことで、パウロは時間を取られたくありません。そんな偽教師の誇りと対比させてパウロは、自分の体にある打ち傷を示しました。彼の体はあざだらけ、傷だらけだったのです。これがパウロがキリスト者であることのしるし(焼き印)であったのです。
『6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。』
この祝福の祈りは、ガラテヤ書の終わりにふさわしい終わり方です。「恵み」があなたがたとともにあるように、と祈っています。