使徒7:54-8:3

 天を見上げて

2022年 116日 主日礼拝

天を見上げて

聖書 使徒言行録7:54-8:3

 今日の聖書は、ステファノの殉教とサウロ(後のパウロ)による、キリスト教の迫害の所です。 初期のキリスト教会は、12使徒の下にエルサレムにありました。使徒たちは、祭司長たちから福音の伝道をやめるように言われていましたが、それを守らず神殿で教えていたので、裁判にかけられました。有罪となるところでしたが、サウロの先生であるガマリエルの口添えによって、鞭打ちだけで釈放されます。使徒たちを慕う大勢の群衆が一緒にいましたので、騒ぎになることを畏れて、様子を見ることになったからです。この判断では、福音伝道をすることが認められたのと同じでした。そこで、使徒たちは、神殿や各家庭を回って福音を宣べ伝えます。こうして、キリストを信じる信徒は増えていきました。その中にはギリシャ語しか話せない人が多くいます。当時多くのユダヤ人がローマから追放されて、エルサレムに帰っていたからです。アラム語を話す人々とギリシャ語を話す人々がいることで、問題が起こります。当時の教会は、財産を教会に寄付して、共同生活をしていました。ですから、だれかが必要なものを持ってくるわけですが、ギリシャ語しか話すことが出来ない人や弱いものには、充分に配給がいきわたらなかったようです。そこで、立てられたのが執事です。ステファノら7人が選ばれました。この7人は、すべてがギリシャ語を話す信徒です。12使徒たちは、み言葉の働きに専念したいことから、この7人を立てて、その頭に手を置いて任命しました。 

 執事の働きは、信徒のお世話だけではありません。説教も担当したようです。そして、大祭司たちは、使徒に手を出そうとして失敗していることから、ステファノら7人の執事を標的にしました。そして、ステファノを偽の証言で訴えるのです。(6:12)訴えは以下の通りです。

*この聖なる場所(神殿)と律法(モーセ五書)をけなした。

*あのナザレの人イエスは、「この場所(神殿)を破壊し、モーセが我々に伝

 えた慣習を変えるだろう。」と言った。 この2つです。 

大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねると、ステファノは抗弁はしないで、福音を語り出します。その結果が、今日の聖書箇所であります。

『7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。』とあります。

 大祭司たちが何に怒ったのかは、明確で、この言葉にあります。

『7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。』 さすがにこの言葉には、怒ることでしょう。

 さらに、あなた方は預言者たちを殺してきたように、救い主であるイエス様を殺したという趣旨で、祭司長たちを非難したからです。

 

 ステファノは、激しく怒っている祭司長たちを見ていません。天を見上げていました。聖霊に満たされていたのです。すでに死ぬことは覚悟していたのでしょう。イエス様だけを見て、そして堂々と祭司長たちの前で、イエス様の福音を語ったのです。 そのとき、天にイエス様の姿が見えました。

『7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。』

このときステファノは、イエス様のことを人の子と呼びました。人の子とはメシヤ(救い主)の称号で、イエス様はご自身のことを人の子と言っていました。また、神の右に坐するのは、神のみ子であります。ですから、ステファノは、「救い主とはイエス様のことだ」ということ、そして「イエス様は神の子である」ということを 祭司長たちの前で、宣言したのです。

 使徒たちへの裁判とは異なり、ここでは議論することもなく一気に結論が出ます。ステファノは、最高法院から都の外に引きずり出されてしまいます。そして、石打の刑となりました。これは、正式な手続きによる公の処刑ではありません。当時のユダの国では、最高法院による自治は認められていましたが、死刑だけは、カイザリアにいるローマ総督の裁判を受けなければならなかったからです。ですから、イエス様が十字架にかかる前も、最高法院と総督ピラトの判決を受けています。そして、使徒たちが捕まった時は、最高法院で「しばらく手を出さずに様子を見る」ことに決まっていたのです。ところが、今度は最高法院での判決もないまま、石打の刑になってしまいました。石打の刑は、訴えを起こした証人から石を投げはじめます。石を投げる前に、その処刑の立ち合い人に服を預け、証人として最初に石を投げることを表明します。その立ち合い人となったのは、サウロ。ガマリエルの弟子であるサウロは、ステファノの処刑の立会人を引き受けたのです。こうして、キリスト教への迫害が始まりました。やむなく信徒たちは、エルサレムから脱出して、地方に逃れました。こうなると、止まらないのは、サウロです。

『サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。』とあるように、キリスト教の全滅を目指しているような行動をとります。しかし、サウロは12使徒には手を出しませんでした。12使徒は、人々の尊敬を集めていましたから、手を出すとさわぎがおこると心配されるからです。それに対し、ステファノであれば少し立場が低いので、さわぎは起きないとの読みがあったのだろうと思われます。つまり、むりをせず、弱い方を選んだわけであります。この選びは、筋の通らないことであります。ところが、その無理筋な判断、このサウロの大迫害によって、み言葉は地方にも蒔かれたのです。その上、サウロ自身が回心して、世界伝道へと突き進むわけですから、神様のなさることは、不思議なものです。

 さて、ステファノですが、いよいよ殺されようとしているなかで。

 

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。

とあります。裁判中には天を見上げていたステファノは、死を前にしてイエス様に向き合っています。そして、自分自身に暴力をふるっている人々のために「この罪を彼らに追わせないでください」ととりなしを祈りました。

 息絶えたステファノは、信仰深い人々によって葬られました。サウロによる苛烈な迫害にもかかわらず、エルサレムに残っていた信徒たちが居たわけです。また、石打の刑は、殺して晒すのが目的ですから、処刑された人を葬ることは普通はありません。信仰深い人々は、冤罪であることを確信していたのでしょう。ステファノを葬ることは、石打の刑に抗議するような、たいへん勇気のいる行動だったと思います。

 

 ところで、サウロがキリスト教を迫害した理由はどこにあるのでしょうか?

サウロは、ファリサイ派のユダヤ人で、著名な律法学者ガマリエルのもとで学んだエリートでした。サウロは、旧約聖書が預言している救い主がナザレ人イエスのことだとは信じていません。だから、「イエス様を神の子・救い主だとして福音を語る」キリスト教徒たちを許せなかったのです。サウロから見ると、イエス様のしてきたこと、時によって律法を無視した事は、神様に対する冒涜だったのです。

 こうしたかたくなな考えをもったまま、サウロは迫害を続けました。そして、ダマスコでイエス様に出会うまでは、変わらなかったのです。言い方を変えましょう。サウロは、イエス様と出会って変えられたのです。イエス様を信じない者が信じる者に、そして、キリスト教の迫害者サウロが伝道者パウロに変えられたのです。ステファノも、イエス様に出会って変わった一人です。ステファノの死ぬ間際の言葉は、イエス様の言葉とそっくりです。

 

ルカ『23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。』

この言葉は、ステファノの『「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」』と全く同じ意味です。また、もう一つ、

 

『「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」』

このステファノの言葉は、このイエス様の言葉とかさなります。

ルカ『23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕』

 

 ステファノはイエス様の生き方に見習っていたのですね。大祭司たちやサウロと異なり、いつもイエス様を見ていたと言えます。それは、イエス様と出会って、そして信じているからであります。しかし、大祭司たちは、イエス様を信じませんでした。もちろん、祭司の中には、イエス様を信じ信仰に入った人もいました。しかし、大祭司たちはイエス様に出会っても、イエス様を信じなかったのです。そして、罪のない者を裁こうとします。・・・それは歴史上何度も繰り返されているのです。当然ながら、罪のない者を偽の証言をもって裁くのは、明らかに神様への冒涜であります。それを聖職者が堂々と行うことは、かなりひどいですね。 すくなくとも、犯罪でありますし、とても神様のみ旨に沿う行動ではありません。神様の方を見ていないということだと思いますが、大祭司たちは何処を見ているのでしょう。「治安」つまり、暴動が起こらなければよいのでしょうか?。または、「権威」つまり自分たちよりも人気があるのが気に入らないのでしょうか?どちらにしろ、自分の都合で見ているようです。

 ステファノは、その点を比較すると、天におられるイエス様に目を向けていました。いつも、天を見上げているのです。自分自身が、訴えられても自分の身を守ることをしませんでした。そして、ステファノは「霊」をイエス様の御手にゆだねたのです。そして、律法の専門家たちの前で、救い主はイエス様であると 宣教しました。その間中、イエス様はステファノに聖霊をふり注いでくださいます。だから、ステファノの宣教は力強かったのです。それでも、祭司長たちと律法の専門家たちは、イエス様を受け入れることを拒否して、激しく怒ります。そして、ステファノを殺そうとしたのです。ステファノは、死ぬことを覚悟していましたが、いよいよその時になると、「自分を助けてください」と祈るのではなく、『「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」』とイエス様に祈ります。こんなときにも、ステファノはすべての人が救われることを望み、イエス様にとりなしの祈りをしたのです。いつも、ステファノは、天を見上げていました。そして、イエス様が手を差し伸べてくださるよう祈り、そして全てをイエス様にゆだねたのです。私たちも、イエス様を見習おうといつも天を見あげているステファノのように、イエス様に頼り、そしてゆだねていく教会生活を送りたいものです。そうすれば教会は、聖霊であふれます。今以上に、聖霊に満たされた教会となっていきましょう。