マタイ25:1-13

小さい者の一人に 

1.人の子

  人の子とは、旧約では「人間」の意味で用いられることもありますが(民 23:19,詩 8:5)新約では多くの場合メシア(キリスト)を指す言葉です。しかも唯一の例外(使 7:56)を除いてすべてイエス様の言葉の中に用いられ,イエス様自身の呼び名とされています。

似た言葉には、神の子があります。神の子は、神様とイエス様の特別な関係を示していますが、イエスキリストを信じる者達との意味にも使われます。

2.再臨のとき

 人の子が栄光の座に着く時というのは、再臨の時をさします。一度十字架にかかって死んで、復活したイエス様ですが、再びこの世に来られるときです。その時の説明をイエス様がされているのです。王様が、自分の右手に王子を置き左側にも重臣を置いたでしょう。しかし、今日の聖書は、右に祝福された人たちを、左に呪われた者どもを置きました。右側と言うのは英語ではright sideですから、正しいものを置いたということを指していると思われます。羊飼いが右に羊を置いて山羊を左に置くという譬えも、そのまま正しい側が右という事だと思われます。

イエス様は、このように再臨されると、人々を右と左にお分けになることを説明しました。永遠の命にあずかる者と永遠の罰を受ける者が、このとき決められるのです。

3.小さい者の一人に

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 王様の右にいる人たちは、この王様の言葉に戸惑いを感じます。言われたようなことを王様にした覚えがなかったからです。そして、そのことを正直に言いました。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

すると、王様は意外なことを言われます。王様が言うわたしとは、この世のすべての愛する者を指していたのです。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

そして、真反対の人たちは、王様の左側にいました。王様が言います。

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

王様の左側にいる人たちは、さっそく反論をします。

『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

右にいる人たちと王様のやり取りを聞いています。そこで答えがわかっているのにこの反論ですから、王様の考えが正しいことを後追いして証明するだけです。しかし、それでも言い切ってしまうところが、呪われた者なのでしょう。そして、王様がしてほしかったお世話をしていないことに気が付いていません。(一般的にお世話をしていると思ってそれに満足している人は、お世話をしなくなるものです。)

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

王様と言う大きな者に対しては、お世話をしても、小さなものには何もしてあげない。そのような者は呪われているし、イエス様の再臨の時には、裁かれる。そのようなことにならないように、イエス様は譬えでお教えになるのです。