ルカ9:10-17

 五千人の給食

 

1.給食の物語には、続きがある

 この五千人への給食の物語は、4福音書とも取り上げられていますが、マタイ15:32-39とマルコ8:1-10には、四千人の給食の物語も存在します。また、この給食を受けて、ファリサイ派のパン種に注意しなさいとマタイ16:5-12、マルコ8:14-21、ルカ12:1これらの記事は伝えています。ルカでは、その根拠は示されていませんが、マタイとマルコは、五千人で12籠のパンくずが集まって、その後の四千人で5籠のパンくずが集まったことを根拠に、イエス様はファリサイ派のパン種に気を付けるように言っています。

 パン種とは、教えの事でしょうか? ファリサイ派の人々のパン種は、悪いパンだねで、パンの生地を腐らせたのでしょうか?それとも膨らまないのでしょうか? パンの生地は、私たちの信仰だと思えばよいでしょう。み言葉によって、パン生地が膨らみ 満腹して余るほどその恵みに与ったわけです。マタイとマルコは、この余ったパンくずの量を見て、イエス様が「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」と言うわけです。マタイとマルコは、だんだん信仰のふくらみが減ってきているから・・・ルカでは、そもそももっと信仰が膨らむはずだと言う意味でしょう。(もしかして、12弟子の信仰が揺らいでいて、5人分の成果しかなかったのでしょうか?)ファリサイ派の教えで、伝道に支障が出ていると注意しているのです。また、マルコではヘロデのパン種にも注意するようにとあります。ヘロデ・アンティパスは、イエス様の活躍した土地(ガリラヤ、ペレア)の領主です。この人は完全にユダヤの国をローマに売っていますから、ローマ皇帝への礼拝や、偶像の設置、エルサレム神殿の祭具などへの冒涜を行っているローマと同一視されていると思われます。また、ヘロデはイエス様の事に興味を持っていますし、領主ですから、治安のためにイエス様の伝道に言いがかりをつける心配もありました。ファリサイ派とヘロデいずれにしても、神様に背を向けて「罪」を犯しており、そして社会的に影響力があったわけですから、これらの悪いパン種が混ざらないように、語る教えを吟味していく必要があったわけです。


2.パンは増えたのか?

 実際に、パン五つとニ匹の魚で5000人が満足するわけがありません。男の数が5000人ですから、1万人はいたのでしょう。当時ローマ兵は丸い大きなパン1個を支給されていました。普通に考えると、パン5個は10食分程度なわけです。残りの9990食分はどこから出てきたのでしょうか?答えは、いくつかありそうです。

①有り余るみ言葉に満足したのであって、本当にパンが増えたわけではない。

②イエス様が、持っているすべてを供出したので、人々も持っている物すべてを出して分け合った。

③本当に、パンが増えた。パン種はその事実に乗せた 意味づけ。


 どの答えも、それなりに支持する人がいると思います。一方で、それぞれ説明が出来ないことがあって、決定的な答えとは言えないのです。

①は、ストレートにみ言葉に満足したと書けばよいと思われます。つまり、なにも不思議なことが起こっていないのに、奇跡物語に仕上げる必要はないからです。なんらかの、しるしがそこにあったのではないでしょうか?

②については、べトサイダの町にイエス様がいることを知って、集まってきた群衆ですから、それも病人をいやしてもらうなどの目的です。我先を争ってきていることが想像されますし、そもそもきちんと治療の受けられない貧民層の人々です。あらかじめ、持参るパンを用意しているわけはありません。また、パンを買うお金にも不自由したろうし、またパンを焼くくらいなら時間を惜しんでイエス様を追いかけたはずです。つまり、みんなで分け合うほどのパンを持ってきているわけがないのです。

③は、イエス様ならできると信じられるとよいのですが、それにしても不思議です。


 客観的な推察から離れて、その食事をした本人たちは、パンが増えたことを認識していたのでしょうか?福音書記者はみんな、増えたと信じたのだと思います。一方、そのような奇跡が起こっていたとしても、信仰がその人になければ、気がつかないものです。そして、信仰が無くて気がついていなくても、弟子たちから渡されたパンには与ったわけです。私たちは、信仰が弱くて神様のされた奇跡を何度も見逃したことでしょう。しかし、神様は奇跡を起こされる方です。そして、信仰がなくてもその神様の恵みの奇跡には、知らず知らずに与っているのです。


3.解散させたがった12弟子

 12弟子は冷静です。このまま解散させなかったら、食事の世話がいります。しかし、多くの人はそのような準備をしてイエス様のところに来たわけではないのです。普通に考えると、お店まで行って買ってくるにしても、数に問題がありますし、イエス様は最下層の人々に寄り添いましたから、そのお金の手当てもできません。しかし、イエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と命令しました。

 これには、弟子たちも理解に苦しんだことでしょう。パンを増やすという奇跡を予想だにしていなかったからです。言い方を変えると、さんざんイエス様の起こす奇跡を目撃している弟子たちですが、その奇跡に気がついていなかったのだと思われます。信仰が弱かったからです。イエス様を信じていれば、イエス様ご自身に奇跡をおこす力があることを信じて、イエス様にすがるでしょう。それが、信仰がないので、理性的に考えてしまいます。つまり、自分らの出来ることが限られているのに、イエス様にすがりません。そうすると、本当にできることの一部しかしてあげられなくなるのです。


4.主の晩餐式

 すべての礼拝参加者が、主の晩餐に与れる教会があります。信仰を持つ者も持たない者も、一緒に与れるその根拠は、この聖書の箇所です。私たちバプテストにもそのような教会があります。この教会では、信仰を告白してバプテスマを受けた人であれば、どの教会の人でも主の晩餐に与ることが出来ます。これは、どちらが正しいかという議論をすることではなくて、教会それぞれの選びだと思います。

Ⅰコリ『11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。』


 このパウロの言葉が、バプテスマを受けていない人が相応しくないと言う根拠となっているようです。しかし、「だれでも、自分をよく確かめたうえで」と言っているだけです。だれでも受けられるのです。イエス様とパウロが言っていることに、だれでも主の晩餐に与ることは矛盾していないのです。