Ⅱテモテ1:1-5

 母からもらった信仰

2020年 5月 10日 主日礼拝

『母からもらった信仰』   

聖書 テモテへの手紙二1:1-5 

お母さま方への、日ごろの感謝を表すために、多くの国では5月の第二主日を女性の日を記念して、礼拝を守ります。

女性の日の起源にはいくつかありますが、第二主日を女性の日とした経緯をご紹介したいと思います。1870年のアメリカ、ちょうど南北戦争終結直後です。女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「女性の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発表したことに始まります。この「女性の日」は、結局普及しませんでした。一方で、ウェストバージニア州では南北戦争中から、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するための活動がありました。このために地域の女性を集めたアン・ジャービス(Ann Jarvis)の死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これがアメリカでの女性の日の起源とされます。

アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「女性の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡しました。このことから、白いカーネーションが女性の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「女性の日」を作って国中で祝うことを提案しました。

1914年に「女性の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められました。これは、日本のキリスト教会の女性の日の起源でもあるわけです。

女性参政権のための政治活動家が、戦争に家族を送ることを拒否する活動をした。だけど、広く受け入れられなかった。それなのに、教会学校などで純粋に奉仕をしていた母親。その母親を純粋に記念したお祝いのは、広まった。なにか、心の中がほっこりするようなエピソードです。

 

今日の聖書は、第二テモテの1章です。テモテの父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人でした。パウロは、テモテを伝道のために良く用いました。その証拠にパウロの第二回伝道旅行と第三回伝道旅行にはテモテが同行しています。また、コリントの信徒への第二の手紙では、パウロはテモテをコリントの教会に派遣し、その指導に当たらせています。後には、パウロはテモテを按手して、エフェソの主教にしたとの伝承もあります。

パウロは、手紙の中で、テモテの信仰を思い起こしています。なぜなら、パウロは、テモテにこれから起こる困難に、テモテの神の賜物をもって立ち向かうよう励ましたかったからです。5節をご覧ください。パウロはこうテモテに書いています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。

ここでパウロは、テモテの信仰を「純真な信仰」と言いました。私たちは信仰に歩む中で様々なことを体験し知恵をつけますが、その知恵のために純真な信仰が、いつのまにか濁って来そうになります。それを止めるのは難かしいことです。でも、大丈夫です。純真な信仰に再び立ち帰ろうとするなら、神様の手助けによって、再び力を取り戻すことができます。周りの様々な声に聴きながらも、ただ主から与えられた純真な信仰で聴き、祈ることによって、神様から与えられた賜物は堅く立っていくのです。ですからパウロは、テモテはこの信仰をこそ頼りに立たなければならないと考えたのです。パウロは、このテモテの純真な信仰こそが試練に立ち向かう武器だと確信していたのです。

 

ところで、そのようなテモテの純真な信仰はどのようにして与えられたのでしょうか。Ⅱテモテ1:5には、その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っているとあります。テモテの信仰は、祖母ロイスと母エウニケのうちに宿っていたものと、パウロは言うのです。おそらく、彼女らはパウロが第二伝道旅行でリストラを訪問したころ、すでに信仰を持っていて、パウロと共に福音を宣べ伝えたのだと思われます。彼女らの信仰をテモテが純真に受け継いだ。祖母の信仰が母に、そしてテモテにです。・・・

そんな、純真な信仰を持つテモテをパウロが見出して、伝道に用いたのです。使徒言行録16-1を見ると、パウロが第二回の伝道旅行でリストラを訪問したときにテモテをその働き人に加えています。

テモテの母ユニケはユダヤ人でしたが、父はギリシャ人で異邦人でした。そのような中でもこの異邦人一家は、キリストの福音に生きていたのです。イエス・キリストの福音と、家族の信仰によって、テモテの純真な信仰が育まれていったのです。

テモテのように純真な信仰が育まれるために、家庭における信仰の在り方が大事なことは言うまでもないでしょう。子供達は、イエス様と向き合って生きている親の姿を見て育ちます。そうして、純真な信仰が与えられるのです。テモテの母ユニケは、それを大事に守っていたのではないかと思います。どんな良い時でも、悪い時でも、どんなに迷っても、最後はイエス様に聴き、イエス様にゆだねる。そんな母ユニケの信仰が、テモテにも宿ったのだと思います。

 

テモテへの手紙第二は、パウロが書いた最後の手紙です。(第五代皇帝ネロはAD54年に皇帝になっていますから、ちょうどパウロの第二回伝道旅行の最中でした。皇帝ネロは、AD68年に自殺。その一年前にパウロはエフェソにいるテモテへ手紙を出したと言われています。)パウロはテモテへの第二の手紙を書いた後、間もなく皇帝ネロによって死刑に定められるからです。使徒言行録の最後の部分、28章30節を読むと、もともとパウロはローマで自費で家を借りて住んでいました。それが、この頃になるとパウロは監禁されたので、ローマの看守がパウロを鎖につないで見張っていました。

そもそも、パウロはイエルサレムで、訴えられました。パウロも皇帝に訴え出たので、囚人になってしまいましたが、神様のご計画でしょう、パウロが希望していたローマに伝道に来ることが出来ました。そして彼は2年ほどこの借家の中で神の国を宣べ伝えていたのです。

 そのころ、皇帝ネロは、クリスチャンに対する迫害を始めます。パウロは、再び捕らえられます。ですから、この書簡を描いているときのパウロは、ローマの借家ではなく、牢獄の中にいます。その時には、パウロとともに働いていた、(テモテⅡ21章15節)アジヤ州(トルコ)からの人は全員、パウロから離れてしまう事態が起こっていました。クリスチャンに対する迫害がひどくなったからでしょう。

パウロから離れるということは、信仰を貫けなかったと言うことです。小アジアにいるクリスチャン達は、迫害にあって、信仰の戦いに敗れてしまったのです。

 

パウロは牧会書簡であるテモテへの手紙Ⅰで、しっかりと忠実に、みことばを教え、戦うよう激励しています。そして、テモテへの手紙Ⅱでは、すでに信仰から離れていく者たちが出てきました。ここでは、信仰を守る戦いが起こっていたのです。一部の人が、間違った教えをしているという混乱と、キリスト教が迫害を受けていると言う危機。パウロの群れを去る人々が出たのは、その混乱と危機のためでした。パウロは、テモテに「イエス様を信じる信仰そのものを問われるその時が来た」と伝えたかった。そして、「テモテの純真な信仰こそが、混乱と危機を乗り越える武器だ」と考えたのです。この時こそ、純真な主イエス・キリストへの信仰によって支えられるよう、パウロはテモテを励ますのです。

 

さて、1節-2節の挨拶を読みますと、 パウロは、自分が使徒となっているのは、キリスト・イエスによって与えられる命の約束(テモテへの手紙Ⅱ 1章1節)であると言っています。パウロはその時、死ぬことが近いことを自覚していたのでしょう、「命の約束」と言いました。「命の約束」という言葉が聖書の中で使われている、ただこの一か所だけです。命をかけて信仰を守り抜くことを決心していたパウロです。ですから、イエス様はパウロに福音を伝える力を与えられました。この「命の約束」によって、パウロは囚人となっていてもなお、イエス様によって使徒として働き続けられたわけです。

 

 (1-3)わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし

 パウロは、昼も夜も、絶えず祈る。とてつもない祈りの生活を送っていたようです。そして、この手紙の中にも書いているように、パウロはいつもテモテの働きを祈ってていました。こうして困難の中にあるテモテを、支えていたことでしょう。そしてパウロは、「先祖に倣い清い良心をもって」と言っています。

パウロは信仰深いユダヤ人であり、旧約の聖徒たちは律法への清い良心をもって神に仕えていました。そのパウロは、ダマスコでの回心を機会に、主イエスキリストに仕えました。同じように、私たちには、イエス様を信じる信仰があります。聖霊によってイエス様のことを受け入れ、信じることで私たちは変えられたのです。ですから、その信仰はつねに、イエス様によって強く保たれます。

そして、パウロ。死ぬ時を迎えようとしているパウロは、この良心をもって、テモテのことを力の限り祈っていす。

 (1-4)わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。

この時テモテは、エフェソにいました。テモテは、パウロと分かれるときに、涙を流していたのでしょう。エフェソで困難にあるテモテをパウロは励ましかった。でも今は、パウロは牢獄の中ですから、テモテにローマに来てほしいと願っています。そして特に、テモテの純真な信仰によってパウロ自身が励まされたかった。そのテモテに祈ってほしかったのかもしれません。パウロは、代々受け継がれたテモテの信仰の力を、確信していました。

 先ほど説明しましたが、テモテの母親はユダヤ人で、父親はギリシヤ人でした。当時、こういう場合は、子はユダヤ人と呼ばれないで、異邦人と呼ばれました。テモテは、異邦人だったわけです。けれども、テモテの祖母と母は、テモテが幼いころからイエス様のみ言葉を教えていました。ですから、テモテには、純真な信仰が宿ったのでしょう。テモテの信仰は、祖母ロイスの信仰であり、母エウニケの信仰です。二人とも、疑うことのない、イエス様のみことばを信じる信仰を持っていたのだと思います。

そして、受け継がれた純真な信仰は、困難の前にあっても私たちを力づけてくれます。私たちも、信仰を受け継いでまいりましょう。