マタイ1:18-25

神は共におられる 

1.イエス様の誕生

 各福音書の書き出しにあるイエス様の記事を比較しましょう。

マルコ
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。』
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。』

ルカ
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。』
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

ヨハネ
1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」』

 預言や導入部分を除いて、各福音書は、イエス様のことを書き出した場面がそれぞれ違っています。

受胎告知   →   誕生     →  バプテスマ

マタイ、ルカ     マタイ、ルカ    マタイ、マルコ、ルカ

 ヨハネでは、イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けていません。(もちろん常識として考えられていたので、書いていない可能性もあります。)マタイでは、系図から始まって、イエス様のダビデの血筋であるという、正当性を表現していますから、もっとも歴史をさかのぼるわけです。反対にヨハネは、もっともっとさかのぼってこの世を創造されたときまで言及しています。

 一方で、最も降誕の経緯が詳しいルカですが、もともとテイオフィロに献呈するために資料を収集して書き上げたものですから、伝承のような事も文書化されてきているものです。そういう意味で、人々がイエス様とかかわった部分においては、ルカが最も詳しい情報をもとに書いているという事です。そのかわり、ルカの作品ですから、どうしてもパウロの信仰理解が加わっていることや、ルカ12弟子の直系の弟子では無いので、直接12弟子から教わった内容ではないということです。パウロの文書がたくさん残っているのは、実はこのルカが福音書と使徒言行録を編集するときに収集されたという事を忘れてはなりません。(パウロの伝道旅行のときの使徒言行録に出てくる「私たち」には、ルカが含まれているともいわれています。)

 マルコは、最初に出来た福音書です。一説によると、マルコ教団は主流ではなく、マタイ教団が主流だったようです。マタイ教団の教える、イエス様像は、血筋が正しく、そして預言者イエス様ではなく、神様であるイエス様、そして覚えめでたい弟子たちを表現しています。しかし、ペトロの弟子をもとにするマタイ教団は美化というか元のテキストに手を加えていると思われます。本当はこうだったのだという主張をもって、マルコによる福音書が先に書かれたとも言われています。そこには書くべき血筋もなく、そして、その十字架の死は悲惨なものでした。マルコは、美化をせずにそのままを書き記したのだと言われています。もう一つ大事なことは、マルコのつたないギリシャ語です。マタイが良くできたギリシャ語であるのに対し、ギリシャ語が母国語でない著者が、アラム語のテキストから編集したのでしょう。そういう背景があって、しかも最古の福音書ですから、最も実態に近い(つまり美化されていない)福音書だと考えられています。

 しかし、マルコに書いていない情報、他の福音書の著者は持っていた可能性もあり、マルコの著者も意図して書かなかったこともあると思われます。マルコにはないルカやマタイが使っていたと仮想されている「Q資料」を聞いたことがあると思います。例えば、トマスによる福音書がコプト語で見つかってい、それに近いテキストではないかとも考えられるようです。