詩編92:1-16

御手の業喜び歌う 

1.2節から5節

今日の詩編は、安息日の賛美の歌です。安息日の礼拝では感謝を捧げ、賛美をします。その礼拝をシンプルに楽しみ、喜んでいる姿が見受けられます。

 ユダヤの風習では、今でも金曜日の夜から交通機関は止まって、安息日を守るそうです。まず、聖なる日にふさわしい白い服を着て安息日の始まりの祈りを捧げます。この祈りは女性の役目で、祈りながらろうそくを付けた時点で安息日が始まります。こうして金曜日の夜は、家族みんなで伝統的な食事を楽しみながら和気あいあいと過ごし、土曜日はお祈りをしたり、聖書を読んだり、お散歩するのが一般的な過ごし方です。

賛美ですが、十弦の琴はかなり小さい竪琴のことでしょうか?現代にも伝わっています。竪琴についても詩編の書かれた時代(ダビデの時代紀元前11世紀~編纂された紀元前4,5世紀)にはすでに使われていたものです。そして、御手の業(2,3項参照)をたたえるのです。

2.6節から10節

神に逆らうものが滅びる。わかり易い主張ですが、その前置きとして、

① 神様の計画は、大きく深い

② 愚かな者はそれを知ることがない

③ 無知な者はそれを悟ろうとしない   と歌われています。

 愚かで、無知だったら、知らずに神様に逆らってしまうでしょう。そうではなくても、神様の計画を知りながら、神様に逆らってしまう事も たまにはあるのでしょう。しかし、私たちは神様の大きくて深い計画を知ることも悟ることもできません。ですから、意図していないところで、神様に逆らっていますので、時には繁栄しているように見えても必ず滅びます。しかし、神様はいつまでも高くいます方なのです。

 神に敵対する者も滅びる。悪を行う者は散らされる。似たような言葉ですが、その悪さ程度は、どのように考えたらよいのでしょうか?

(意図して敵対>わからずに神に逆らう)は明らかですが、結果として悪を行ったことその事実に対しては 同じ悪さがあって、散らされなければなりません。

3.11節から16節

13節に「神に従う人は‘なつめヤシ’のように茂り/レバノンの杉のようにそびえ」とあります。そして「主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。」とあります。

なつめやしは、生命力の象徴のような木で、エデンの園の生命の木のモデルだと言われています。それだけぐいぐいと伸びて、最後は高級材となるレバノン杉のように高く茂ります。つまり、神に従う人は、教会に植えられ、教会で育ち、教会を繁栄させると歌っているのです。

 そのように、神に従い、神との関係を維持しながら歳を重ねていく一人ひとりが、

「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ていくと歌います。

 歳を重ねていくことは、この世では衰えを象徴しているけれども、詩編の作者はこのことを前向きに受け止めます。神に結ばれている人は、歳を重ね「白髪になってもなお実を結」ぶ、そして「命に溢れ、いきいきと」すると歌うのです。

 わたしたちは、あれができるとか、これを持っているとか、そういうもので自分に価値を見出してしまいます。しかし、老いによってそのようなものが削がれていくと、信仰がより大切になって来るのです。自分は何も出来ない、何も持ってはいないのだ、というところにこそ「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」という神への信仰が起こされていくのです。そして、今に増して神に信頼した生活を送れるのです。