ルカ3:1-115

イエスの名によって

2022年 227日 主日礼拝     

 「イエスの名によって

聖書 ルカ3:1-11


おはようございます。今日は使徒言行録から、み言葉を取り次ぎます。ちょうどこの記事の前では、聖霊が降り注ぎ、イエス様の弟子たちの活躍が始まります。弟子たちは、共同生活をしながら神様をたたえていました。

使徒『2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。』

この記事によると、弟子たちの群れは、日々仲間を増やしていたようです。当時ユダヤ教の礼拝は、9時、正午そして午後3時の3回なのだそうです。9時と3時の祈りはそれより30分ほど前に始まる犠牲の儀式とあわせて一連の礼拝となっていたようです。神殿やシナゴーグで礼拝を守るほか、自宅でもどこでも礼拝していたということです。なかでも、午前と午後の祈りは、必ず守らなければならなかったようです。そういうわけで、弟子たちの群れは毎日神殿に行って礼拝を守りましたから、ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に行くというのは、日常の光景だったと思われます。エルサレムの神殿は丘の上にありますから、そこまで階段を上ります。神殿の敷地まで登ると、回廊に囲まれた庭があって、そこまでは外国人でも入れます。そして、その広い庭の真ん中ほどに神殿が建っています。正面が真東を向いていてそこにある門が「美しい門」(口語訳聖書では「美しの門」)と呼ばれる、神殿の入り口です。美しい門の中は、婦人の庭と呼ばれる中庭であり外国人は入れません。その先にニカルノ門。門を抜けると庭があってその先が立ち入り禁止になります。その庭がユダヤ人男子の礼拝場所となっています。その先は、犠牲をささげる祭壇がある場所、そしてポーチが神殿の本殿を隠してしまっています。ですから、ユダヤの人でも神殿の本殿を正面から見ることはできません。良く見えるのは、巨大なポーチがそびえていることであり、また外国人にとっては、近くに寄って見られるのが「美しい門」だけと言うことになります。どこが美しいかと言うと、大理石や金の板で扉が飾られていたようです。

そういうことで、「美しい門」は、礼拝に来るユダヤ人が通る唯一の場所であり、また外国人が神殿に近づける限界の場所にあたります。そして、両替商や犠牲にする動物も売るのもこの外側の庭ですから、「美しい門」の近辺はもっともにぎわう場所であるといえます。生まれながらに足が不自由な男は、この場所で施しを受けるために、この「美しい門」の前に運ばれてきました。そして、神殿に集まる人々全てが、その男がこの超一等地で施しを受けることを許していました。そもそも、ユダヤ教では施しをすることを善い行いとして賞賛していましたから、神殿に礼拝に来る人々は、この男に施しをしたし、商売人もこの足の不自由な男に場所を譲ったのだと思われます。この男の生活は、施しをする人々や毎日ここに連れてきてくれる家族や友人、そして場所を譲ってくれる人々によって支えられていました。ですから、いつでも同じ場所で施しを受けていて、エルサレム中の人は、この男を知らないものはいませんでした。ペトロとヨハネも、毎日神殿に礼拝に来るたびに、この足の不自由な男を見ていました。この男は生まれてから歩いたことがないのですから、歩くために必要な筋肉も十分ではありません。そして、なによりもこの男本人が、歩けるようになることに期待していたとは思われません。たぶん、この男はただただお金を施してもらうことを期待していたのではと思われます。エルサレムの神殿ですから、世界中から人々が集まり、そして奇跡を行う者も集まってきています。ですから、この生まれながらの足の不自由な男にも、医者や祈祷師のように癒しや奇跡を試みた人も何人かはいたのだと思われます。しかし、現実は、足が不自由なまま癒されることはなかったのです。この記事を見ると、その男はペトロとヨハネに癒してもらおうとは、思ってもいなかったと考えられます。 

聖書には、この男が「お金を施してくれるようペトロとヨハネにお願いした」様子が書かれています。先ほどの読んだ聖書の箇所のように、イエス様の弟子たちは共同生活をしていましたので、ペトロとヨハネが自由に使えるお金などはありません。そこで、ペトロは言います。

「わたしたちを見なさい」

ペトロは、この男は、小銭を与えれば満足するのだろうことは理解していますが、そのためには実際にお金を作らなければなりません。また、小銭ではなくて足を癒してあげれば、喜ぶと思われますが、この男はペトロがその足を癒してくれるとは思ってもいません。この男は、ペトロたちの奇跡の業を知らないからです。そして、イエス様の事も知りません。足が不自由なので、イエス様や弟子たちがすぐ近くで起こした癒しを見たこともないのでしょう。ペトロに声をかけられて、この男は何か良いものを貰えると期待しました。なぜなら、小銭を投げ入れて去るのが普通なので、「わたしたちを見なさい」と言うからには、大金でももらえるのだと期待できるからです。そしてこの男は、期待以上のものをイエス様から頂いたのです。

聖書は語ります。

『3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。』

ペトロは、まず金や銀がないという残念な事を知らせます。そのかわり、「持っている物をあげる」と再びこの男を喜ばせます。そして、イエス様の名によって、「立ち上がって歩く」よう命令しました。これこそがペトロの持っているイエス様への信仰なのです。一度も歩いたことのない、足の不自由な男をもイエス様の力が癒し、歩くようになるとペトロは信じていたのです。そして、必ず成就すると信じていたから、ペトロはその足の不自由な男の右の手を取って、立ち上がらせました。歩くための筋肉も弱く、前と後ろにバランスをとった経験もないのに、その男は、躍り上がって立ち上がりました。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とのパウロの言葉を聞いて、「イエス様がそれを実現される」と信じたときです。その信じたその時、その足の不自由な男は、自らの意思で飛び上がるように立ち上がったのです。そして、神様を賛美しながら歩き回ります。美しい門から神殿の中庭にも入ったのでしょう。歩けるだけではなく、全ての物の見え方が変わってきます。地べたから見上げる景色が、人の目の高さからの景色に変わっています。いつも、地面と人の影を見て生活していたこの男が、普通の生活をすることができるようになったのです。もちろん、物乞いはもうできませんが、うれしくて神様を賛美しました。この癒しの業は、イエス様の名によって行われた神様の業だったのです。この足の不自由だった男は、毎日美しい門の前にいて物乞いをしていましたから、エルサレム中の人々はこの男を知っています。そして、その男が足を癒されて神殿の境内に入って歩き回っていることに気づいた人々は、大変驚きました。奇跡が起こったことを目撃したからです。

その後、その男はペトロとヨハネに付きまといました。原語では(κρατέω)、「しがみつく」または「拘束する」と言う意味ですから、そのときのペトロとヨハネは、まとわりつかれて身動きできないほどだったことがわかります。その足を癒された男は、ペトロとヨハネに聞きたいことがたくさんあったはずです。これから、どうやって生活したらよいのか? どうして、ペトロは癒すことができたのか?とか あなた方はいったい何者なのか? 聞きたい事はいっぱいあります。そして、キリスト・イエスとはだれか?も聞いたはずです。ですから、ぺトロとヨハネはイエス様のことを丁寧に教えたに違いありません。神殿の外側の庭にあるソロモンの回廊には、屋根もありますから、そこでいろいろこの男に教えることになったのだと思われます。ソロモンの回廊は、もともとラビ(先生)たちが討論し、教える場所であったのです。イエス様もここでお教えになっていました。そこで、この男は、ペトロとヨハネの教えを聞いたのです。人々は、その教えを聞いている人物が、「美しい門」で物乞いをしていた足の不自由な男だと気が付いて、立っていることに驚きます。そして、多くの人々が集まってきました。

 

今日の聖書の箇所では、神殿が祈りの場であること、そして人々が施しをする場であることが示されています。ペトロとヨハネは、神殿でイエス様の名前で人々を癒し、そして教えました。現代の私たちの教会は、それと比べてどうでしょうか?教会は祈りの場になっているでしょうか?教会がだれかに施しをしているでしょうか?また、イエス様の名によって奇跡が起こっているでしょうか?改めて、教会の役割を考えさせられます。もちろん、2000年前と全く同じ働きがででなければならないということはありませんが、今の時代に、そしてこの教会に求められていることを提供できる教会でありたいものです。例えば、コロナのために世界中の人々の生活は分断されています。また、仕事に大幅な支障が出ている方もいれば、雇止めにあってしまう人も、そして社会インフラを支えるために働きづめの人もいます。こういう人々に癒しを提供できる教会でありたいと願っています。イエス様の癒しを人々に届けるために、まずは、そのことを祈ってまいりましょう。わたしたちには、金や銀はありません。しかし、そのかわりに良いものを持っています。イエス様を信じる信仰です。そして、祈りの力です。祈りの力は、私たちの力ではありません。イエス様の名前によって祈るからこそ、イエス様によって神様に取り次がれ、そして成就するのです。

ペトロ自身が、このあと、群衆に向かってこのように宣言します。

『「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。~

3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。』

 

人を癒すのは、イエス様の名によるものであります。イエス様を信じる信仰が、教会に来る人々を強め、癒してくださるのです。イエス様を信じ、イエス様の名前によって人々が癒しに与れるよう祈ってまいりましょう。すべての祈りと願いは、イエス様によって成し遂げられます。