Ⅰヨハネ2:18-27

 御子の内にとどまりなさい

 2024年 6月 9日 主日礼拝

御子の内にとどまりなさい

聖書 ヨハネの手紙一 2:18-27           

『ヨハネの手紙一』は、新約聖書の中で、公同書簡とよばれるものの一つです。

公同書簡の元の意味は、普遍的な書簡です。(英語の「カトリック(Catholic:普遍的、世界的)」、「イプシル(epistle:送るもの)」)

 ということで、公同書簡と呼ばれています。その意味は、宛先が無い、どこの教会にもあてはまる手紙だと理解ください。なぜかというと、パウロ書簡のような特定の教会に向けた手紙ではないからです。ヨハネをはじめとした公同書簡の著者は、すべての教会のために、手紙を書きました。つまり、当時の一般的な教会の様子を伺うことが出来る貴重な書簡であるわけです。ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、そしてユダの手紙を、後世の学者たちが、普遍的な内容を持つ書簡としてひとつの「くくり」(普遍的な書簡)にしました。そういう意味で、ヨハネの手紙一の記事は、現代の教会にも当てはまる普遍性が認められているわけです。

 さて、今日のヨハネの手紙一。これを書いたのは福音書記者のヨハネで、使徒であるゼベダイの子ヨハネであると、されています。ヨハネは、イエス様の母マリアを伴ってエフェソで伝道しました。そのエフェソで、『ヨハネによる福音書』『ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』を書いたと言われています。また、パトモス島に幽閉されていた時に、『ヨハネの黙示録』を書いたと言われています。ヨハネは、90才ぐらいまで生きました。使徒の中で最も長生きなだけではありません。殉教することなく、生き残った使徒であります。ヨハネは、もともとペトロと並ぶようなイエス様の弟子でした。また、キリスト教迫害から生き残った使徒です。ですから、当時キリスト教を代表する指導者であります。そのヨハネが「キリスト教とは違う教え」(つまり異端)について書いていることから、この異端の問題が当時の教会にとって、重大な課題だったことが伺えます。そしてこの手紙は、どこの教会にも、つまり現代の教会にも起こりうることが記されています。いったい、何が起こっていたのかを、聖書を見てみましょう。

『2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。2:19 彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました。』

 

 ヨハネの生きた紀元1世紀、キリスト教の群れが成長してくるとともに、その本来の教えとは異なる異端の教えが出てきては、消えました。異端(アイレセー:αίρεση )とは、正統な教義から外れていることを意味します。その異端の教えを頂く人々は、当時のキリスト教の群れの中にもいました。また、キリスト教とは別の群れを作って出ていく場合もあります。もし、教会の中に異端があったとしても、群れを作って出ていく分には、教会に残された人々は混乱しません。しかし、同じ教会に異端が留まっている場合は、かなりやっかいです。教会が混乱するからです。そして、正統な教えとは何か?異端とは何か?を明らかにすることで、区別していく必要も出てきます。そして、区別しようとすると、それを受け入れない人もいます。また、その区別の仕方に問題があると言いだす人もいるでしょう。その結果、正統なキリスト教信仰とは?といった根本的な事が問われました。このようにして、異端を区別する必要があったがために、キリスト教の教えが確立し発展したと思われます。

 さて、異端によってキリスト教のどこが変わったのでしょうか? それは、私たちクリスチャンが何者であるか?と言った自覚だと思われます。教会は、キリストを信じる者が、礼拝を守り、信仰の証を分かち合い、伝道の働きに協力し合う場です。そして、教会の基本の基本は、イエス様を信じ、礼拝する事なのです。ですから、礼拝をするために集まる人は、イエス様をキリストと信じています。そして、イエス様への信仰を求めている人も一緒に礼拝を捧げます。ですから、そこにイエス様が神様ではないと主張する人がいること自体が、考えにくいですね。それなのに、その一番大事な点が、あいまいだったわけです。そのために、イエス様のことを神様だと認めない人が、キリスト教の群れの中にいました。そして、徐々にそういう人が増えていきます。

 ところで、イエス様を神様でないと主張する人は、いったい何を神様として礼拝しているのでしょうか?。それを考えると、異端と言うよりも異教なのかな?と思います。ヨハネの手紙一が書かれた意図の一つは、そのキリスト教と言えない異端を見分けるためだったと言えます。


 私たちは「神の民」です。しかし、この世では悪魔の手が届く所で生活しています。「神の民の敵」である悪魔は、嘘偽りや間違った教えを広めるために、絶えず獲物を探しています。その悪魔の獲物となった人が「反キリスト」となりました。「反キリスト」とは、「キリストはイエス様のことである」との信仰を否定する人です。反キリストが出現するのは、ヨハネによりますと「終末の時」であります。ヨハネの手紙一が書かれた当時、無視し得ないくらい多くの反キリストがいました。彼らは、イエス様への信仰を持っていません。キリスト教と反キリストの決定的な違いは、その教えで、見分けることができます。反キリストの教えの特徴は、イエス様が旧約聖書に登場するキリスト(すなわちメシア)であることを否定することであります。また、その結果として、イエス様の教えを聞き入れようとしないわけです。ですから、イエス様を通すことによってできた私たちの唯一の神様とのつながりは、反キリストにはありません。それなのに神様を礼拝する?・・・そこに矛盾があるようです。だから、反キリストの人は、私たちと同じ神様を礼拝しているのではないのです。反キリストの人々は、神様ではない者、つまり自分に都合の良い神を心の中に作り出し、礼拝しているのです。それは、偶像礼拝にも似ていると言えるでしょう。一方で、イエス様をキリストと信じている者には、御子イエス・キリストの仲介によって、父なる神様の導きが与えられます。ですから、父なる神様は、イエス・キリストを信じる人々を、守ってくださるのです。


『2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。』

 「聖なる方から油を注がれている」というのは、私たちキリストを信じる者が聖なるバプテスマを受けていることを指します。それは、物理的に油を注がれたとか、水の中に沈められたという意味ではありません。また、目で見ることのできる儀式のことでもありません。「油を注がれている」それは、イエス様を信じる人が、聖霊の働きによって、バプテスマを受けることを指します。ですから、私たちの礼典であるバプテスマは、事後手続きであります。「すでにこの人にはイエス様を神様として信じる信仰が与えられている」こと、つまり聖霊によるバプテスマを受けていると認め、アーメンと賛同し、神様への感謝を献げるものです。ですから、バプテスマを受けた人はすべて「イエス様が神様である」との真理を知っている人であり、信じている人なのであります。


 今日の記事から、キリスト教を伝える上で、心を留めたい事があります。信仰を求めている人への伝道のために、もっと興味がわくお話をしようと考えたとします。例えば、「イエス様の十字架や死からよみがえった話よりも、道徳的なイエス様の教えを聞かせよう」との考えです。このようなアイデアは、正しいでしょうか? 私は、間違いではないけれど、正しくはないと思います。イエス様の十字架の話をしなければ、教えの中心がなくなってしまうからです。イエス様の十字架なしでは、私たちはイエス様の犠牲による赦しに与れないだけではありません。父なる神様にもつながることもできません。なぜならば、父なる神様と繋がるためには、ひとつの道筋しかないからです。ですから、忘れてはいけません。神様につながる唯一の道筋こそが「イエス様が救い主」だと信じることなのです。

『2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。』

 ヨハネは、このように宣言しました。イエス様を救い主だと信じない者は、父なる神様と結ばれていない。イエス様をキリストだと信じてその信仰を告白する者こそが、父なる神様と結ばれている。ですから、イエス様を救い主と認めない、「人の作った都合の良い教えを頂く人々」反キリストには、父なる神様も、御子イエス・キリストも結びつきません。従って、聖霊の導きにも与れないのです。このヨハネの手紙が示したことによって、「正統なクリスチャンとは、イエス様を救い主として信じる者である」との、基準が出来ました。

 今日の記事では「この世の終わりが近いこと」のひとつのしるしとして「反キリストの出現」が挙げられました。しかし、「ヨハネの手紙一」が執筆された当時、数多くの反キリストが現れたにもかかわらず「終わりの時」が来ませんでした。それが事実であります。そして、当時の異端の教師たちによって、反キリストが始まったのも事実です。その後の歴史をたどっても、この反キリストは、人々を混乱の中に誘い込みます。人心を惑わす異端、不信仰、キリスト教徒への迫害なども「この世の終わり」を象徴するしるしです。ヨハネによると、これらのしるしはこの世が終わる時までに、すべてが現われます。そう言う心配の中で、「反キリスト」などが引き起こす大きな艱難がやって来ます。そして、その艱難を乗り超えた後に、「この世の終わり」がやって来るのです。この日が来ることに希望を持って、日々の信仰を守っていくことが私たちクリスチャンに求められています。


 それでは、私たちはどうすれば、終わりの日まで信仰に留まることができるのでしょうか?

『2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。』

 「御子から注がれた油」とは聖霊の働きのことです。聖霊は、イエス・キリストを信じる者を「神様の民」として守り、教えます。それだからこそ、私たちは正しい教えに留まることが出来るのです。もし聖霊の導きがなければ、私たちは信仰を続けることが辛かったり、力尽きてしまったりするでしょう。聖霊の導きがあってこそ、私たちは、御言葉を聴き、悔い改めることが出来るのです。私たちが、罪を悔い改め、イエス様を信じた時に、聖霊は、真のバプテスマを授けてくださいました。同じように、バプテスマを受けた後も、聖霊は私たちの悔い改めとイエス様への信仰によって、イエス様の内にとどまらせてくださいます。「救い主はイエス様の事だ」この信仰によってのみ、「私たちは、御子の内にとどまる」ことが出来るのです。こうして、「御子の内にとどまる」ことによって与えられる恵み、「御子が私たちに約束した永遠の命。」を感謝して受け取ってまいりましょう。