マタイ12:9-32

 手の萎えた人をいやす

1.手の萎えた人をいやす


片手の萎えた人が会堂にいました。いやしてもらいたくて会堂でイエス様を待っていたのでしょうか? さっそくイエス様はいやされようとしたところで、人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねます。


偶然その場に立ち会ったからなのか、もともとこの質問をするために手の萎えた人を連れてきていたのかはわかりません。しかし、事実として、その手の萎えた人を癒してはいけないような圧力をかけてきたわけです。


イエス様は言われました。『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。』『人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」』


そうしてイエス様は、手の萎えた人をいやされました。


『 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。』とありますから、そもそも、イエス様をやり込めようとしていたのでしょう。いやせば「律法違反」、いやさなければ「力がない」とそしる予定だったものと思われます。

しかし、律法はファリサイ派の人々のためにあるわけではなく、安息日も律法のためにあるのではありません。安息日は人が休むためにあり、律法は「神様を愛する」「隣人を自分の様に愛する」ために、あるのです。ファリサイ派の人々は、その律法を「自分を愛する」ために利用していたのです。


 2.神が選んだ僕


この場所に付け加える解説は、ありません。イザヤ書の その箇所を示します。


イザヤ『42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。42:7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。

42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。』



 3.ベルゼブル論争


悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人をイエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになりました。

 群衆は皆驚いて、        「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。

 ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。


ファリサイ派の人々のいうことは、もはや言いがかりに近いものがあります。 イエス様の起こすしるしをみて、それは悪魔の頭のしるしだというわけですから。・・・イエス様は、彼らの考えを見抜いて言われました」。

「サタンがサタンを追い出す」などということは、理屈が合いません。それでは「イエス様がサタンの力で悪霊を追い出すのであれば、

悪霊はサタンの仲間ではありません」つまり、「サタンの仲間でない悪霊を追い出すのなら、サタンの仲間であるファリサイ派の人々はサタンの力を借りるしかありません」 


「サタンがファリサイ派の人々を裁く者となる。」と言う結論です。もちろん、最初の仮定が間違っていますので、イエス様はサタンの力で悪霊を追い出したのではないという事が証明されてしまうのです。

ファリサイ派の人々の言った言葉は、イエス様への冒涜であるとともに、聖霊の働きに対する冒とくでもありました。


『12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。

12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」』