ルカ6:27-49

 敵を愛しなさい


 1.敵を愛しなさい


 敵を「愛しなさい」は、イエス様だけの言葉であります。(マタイ5:44、ルカ6:27、6:35のみ)

「隣人を愛しなさい」(レビ19:18)との旧約の教えですが、イエス様は「隣人」には「敵対している」人も含まれると教えました。敵だけではありません。憎む者、悪口を言う者、侮辱する者、暴力する者、奪い取る者、そのすべてが隣人だと言うのです。例外なく、隣人を愛するようにとの命令です。もし、愛なくて良いという隣人を認めたならば、私たちはどうするでしょうか? たぶん、都合のいい隣人と、都合の悪い隣人に仕分けだします。そして、一回りその都合のいい隣人が定義付けられると、それで終わるわけではありません。都合のいい隣人をさらに分けて、都合の結構いい隣人を選び出します。こうして、何度も仕分けをする結果、この上なく理想的で自分に利益をもたらす者を除いて、「愛することを考える必要がない人」を決めてしまうのが、人間の性です。つまり、例外を求め続けることによって、際限なく「愛する隣人」の範囲を狭めた結果、「隣人を愛しなさい」との命令を台無しにしてしまうのです。結果として、「自分を愛してくれる人を愛する」。これは、信仰の無い人でも何の努力なしにできることです。そして、動物が本能のままに生きていても、「自分を愛してくれる人を愛する」のです。そういう「自分によくしてくれる人に善いことをする」その あなたを誰が愛し、恵みを与えてくれるのでしょうか? 

ですから、『6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。~たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。~6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。』

 良いことをすることは、良いことをしてもらった結果、することなのでしょうか?これでは、give and takeとか、win winの関係と呼ばれる ただの取引です。良いことをしてもらっている。それだから良いことでお返し。友達関係とか、仲間であるとか、精神的な利害関係や経済的利害関係でつながっている愛(フィリア)だと言えます。このフィリアの愛は、利害関係が崩れると無くなってしまいます。「それだからの愛」であると言えるでしょう。

 イエス様が教えたのは、自分の頂いている以上に与える愛(アガペー)です。


2.人を裁くな

 人を裁くとは、その人の罪を 取り上げ、立証し、決定することです。どの段階でも、赦すこともできれば、罪を問うこともできます。赦すことがなく、裁くことばかりであれば、あなたの裁きの基準はあなたに適用されます。逆に、赦すばかりで、裁くことが無ければ、あなたの赦しの基準はあなたに適用されます。

 盲人が盲人を道案内できないように、私たち罪ある人は罪ある人を裁けません。

 弟子たちは、イエス様を超えられませんが、修行によってイエス様のようになれます。そのためには、人の目におがくずがあって、「世の中が良く見えていないから、そのおがくずを取らせてくれ」と、人を裁くのではなく、あなたの目に刺さっている梁を取り除く努力をすべきです。

 

3.実によって木を知る

 私たちが木だとしたら、そこになる実は、私たちにとって言葉です。私たちが良い者であるかどうかは、出てくる言葉でわかります。人は、心底思っていることを口にするのです。


4.家と土台

  「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わない人」

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」この違いを示します。


 どちらの家も、外見上は同じに見えます。しかし、「行う人」は、家を建てるときに、岩を深く掘って土台を作って、その上に家を建てました。一方で、「行わない人」は、地面にそのまま家を建てます。どちらの家も、何もなければ建ち続けます。しかし、洪水があったらどうでしょうか? 岩を深く掘った土台の上の家は保たれますが、地面に直接建てた家は、土砂で流されて完全に壊されてしまいます。


 土台は、信仰を象徴し、家は教会での交わりや奉仕と考えてください。目で見えるところだけを、また、気に入ったところだけをコピーして家を建てても(信仰生活に入っても)、家(信仰生活)を支えるだけの信仰が堅くみ言葉の中に立っていなければ、何かおこると、家(信仰生活)は壊れてしまうのです。私たちは、岩(み言葉)にがっちりと支えていただく必要があるのです。