マルコ10:32-45

仕えるために

2022年 4月 3日 主日礼拝

仕えるために

聖書 マルコによる福音書 10:32-45           

年度が替わりましたので、中心に語る福音書をマルコに変えて語ります。2020年度はヨハネ、2021年度はルカを多く宣教に使ってきました。今年度はマルコ、来年度はマタイとする予定です。また、年度代わりついでに申し上げますと、今年度のテーマは「召されたままで」としております。年間聖句は、  コリントの信徒への手紙一  7:17

「 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。」

これは、週報に載せている通りです。また礼拝で最初に使う賛美は、

讃美 338「よきおとずれを語り伝え」としています。この聖句と讃美をもって、毎週の礼拝を守ってまいりましょう。

 今日は、イエス様が十字架の出来事を弟子たちに予告をした記事から、お話しします。今日の箇所は受難の2週前の出来事であります。イエス様は、弟子たちをつれて、エルサレムへと向かって進んでいました。それは、十字架の死に向かっての道です。

 

『10:32一行がエレサレムへと上って行く途中イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き従う者たちは恐れた』。

 この時イエス様は多くの弟子たちの中から12人の弟子を呼び寄せて、イエス様ご自身に起ころうとしていることを話し始めました。つまり十字架での死と復活の予告をしたのです。イエス様がこの話をするのは、初めてではありません。すでに三度目であります。

 

 第一回目は、マルコによる福音書では8章31節にあります。

『8:31それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され三日の後に復活することになっている。と、弟子たちに教え始められた。』

 

 この時にペトロが『イエス様をわきにお連れして、いさめ始めた。』とあります。するとイエス様はペテロをしかって言われました。

『サタン。引き下がれ、あなたは神のことを思わず人間のことを思っている』

 

 ペトロがサタン、悪魔だとイエス様が言ったわけではありません。イエス様は、このときサタンと戦っていたのです。もちろんペトロは、イエス様が突然、「殺される」そして「三日の後に復活する」と打ち明けるものですから、驚いたことは間違いないはずです。また、ペトロはイエス様がこの世に降られた目的をまだ知りません。ですから、普通の人間の感覚として、「殺されるようなことがあってはならない」と考えるのは当然のことです。しかし、サタンは、ペトロの言動を通して、イエス様を誘惑していたのです。イエス様は「サタンよ、引き下がれ!」と大声でペトロを操るサタンをしかっています。すでに、イエス様は十字架と復活の出来事を成就させるために、それを阻止しようとするサタンとの戦いを始めていたといえます。

 

 次の予告はマルコによる福音書9章30節にあります。この時弟子たちの反応は?と言いますと32節にあります。

『9:32弟子たちは、この言葉がわからなかった。怖くて尋ねることすら出来なかった。』と記されています。

 そして、今日の聖書の箇所となります。その十字架の死に向けてイエス様は、エルサレムに上っていました。もうその時が迫っているのです。イエス様は、弟子たちがイエス様のこれまで2回の予告では、理解が十分でないことを分かっていましたので、より詳しく弟子たちに予告しました。イエス様は、十字架の死を受け入れるために今まさにサタンと戦っていますが、サタンは弟子たちをも利用するでしょう。サタンが弟子たちに入ることを避けなければなりません。もうすでに、十字架の時が迫ってきてます、弟子たちにも、イエス様の十字架の死を受け入れてもらわなければならなかったのです。そして、弟子たちには、そのあとの役割があります。イエス様のことを伝道すること、福音を宣べ伝えることです。この、重大な使命を弟子たちが受け継ぐことができるよう、神様のご計画を知らせておかなければならなかったのです。

 

 ですから、この予告は弟子たちへの伝道命令であるといえます。イエス様ご自身は、十字架の死で終わる。そして、よみがえる。この十字架と復活の意味は、まだ弟子たちには理解できないはずです。しかし、イエス様が復活したことを知ったとき、その良き知らせである福音をこの弟子たちが担いました。イエス様の予告、十字架と復活が成就することによって、弟子たちは神様のご計画である事を知ったからです。その予告の成就を共に経験して、さらに復活されたイエス様に会うことで、弟子たちはイエス様の十字架と復活の意味を理解しました。

 

 これらのことから、イエス様のこの行動が理解できると思います

『10:32一行がエレサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。』

 エレサレムに上って行く、そこでは十字架の死が待っています。それなのに、うなだれて一番後ろからついてくるのではなく、自ら進んで、そして弟子たちを引っ張るような態度で、まるで死に向かって進んでいるような姿に弟子たちは驚き恐れました。そして、イエス様は自分の身に起ころうとしていることを、これまで以上に事細かに打ち明けました。

『10:33今、わたしたちはエレサレムへ上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告し異邦人に引き渡す。10:34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』

 イエス様は、十字架による処刑の死に至る出来事を予告しました。もちろん、惨めな死を迎えるとのイエス様の言葉は、弟子たちにも理解できます。しかし、なぜ、殺されなければならないのか?やイエス様の復活など、弟子たちには理解できません。ところがすでに、預言者イザヤは、このイエス様に起こる出来事を預言していました。

イザヤ『53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。』

 なぜ、あの奇跡を起こすイエス様が殺されなければならないのか、とても理解できることではありません。イエス様は、これから受ける惨めな仕打ちと、十字架上での死がある事を知っていながら、イエス様ご自身の意思でエルサレムに向かっています。弟子たちを引き連れていますが、イエス様は孤独でした。弟子たちは、その十字架の死と復活についてまだ理解できていないのです。

 ですから、この予告について、弟子たちはイエス様と一緒に神様に祈ることがありませんでした。そんな中、イエス様は十字架に向けて歩みます。この道は、父なる神様のご計画であります。そして、イエス様はその神様のご計画をやり遂げるために、エルサレムに上っているのです。イエス様は、神様に祈って、そして祈ってその神様が準備された十字架の苦難に向かっていたのです。イエス様の、使命だから。・・・神様がイエス様をこの世に降さったのは、私たちの罪を贖うためだったからであります。

 しかし、この構図は神様の立場から見たものであります。一般的な人の考えることならば、神様から与えられた使命だからと言って、進んでその十字架に向かって進むことはありません。やはり、与えられた使命というよりは、イエス様は自らの犠牲によって、この世の人々を救いたかった。私たちの罪を赦すために、イエス様の十字架と復活が必要であることをイエス様は知っていたのです。そして、それが実現することを願っておられました。神様と同じように、イエス様はこの世を、そして人々を愛したがゆえに、自ら進んで十字架の道を選ばれた・・・そして、その選びを脅かすようなサタンの誘惑と戦っておられたのです。

 イエス様は、ガリラヤなどで、数々の奇跡の業を起こし、権威のある言葉で教えました。これらも、すべてが十字架に至るために用意された神様の計画だったのです。預言者イザヤの時には、すでに予言されています。ですからイエス様は、ベツレヘムの馬小屋に生まれる前から、十字架を背負っていました。

 

 イエス様の十字架の苦難の予告のすぐ後で、弟子のヤコブとヨハネがイエス様に頼みました。

『10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」』

 イエス様の十字架。人々のすべての罪を贖って、神の救いが完成されようとしているこの局面なのにです。ヤコブとヨハネは、人間的な欲望に関心がありました。この世でのことか、生まれかわったのちの世のことかはわかりませんが、イエス様の栄光によって引き上げられたいとの、願いであります。聖書は、人間の罪深さをありのままに書きあらわします。私たち人間にはこのような救いがたい、罪深さがあります。私たちは素直に自分を顧みるとき、自分の中に欲望があふれかえっていることに気づきます。表面上は立派に「イエス様に従う」と言いながら、自分の利益・損得を考えると言う事です。これはヤコブやヨハネだけではありません、私たちすべてに当てはまります。イエス様に仕えるという手段によって「自分が幸せになる事」を考えているのですね。イエス様への信仰を動機として、イエス様に仕えてほしいのですが、「自分が幸せになる事」の方が、あからさまな動機となってしまうのです。

 

 このヤコブとヨハネの愚かな「偉くなりたい」との願いに対して、イエス様は問います。

『このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』

このイエス様の質問は、あなた方も私のように十字架を負うか?との意味です。そして、同じように「偉くなりたい」と思っている弟子たちを集めて、話しました。

『あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』

 イエス様は、人々が仕える偉い人になるためではなく、人々に仕えるためにやって来たのです。そして、多くの人の救いのために「身代金として命を献げる」ためにやって来たのです。イエス様は、弟子たちに「仕える人になりなさい」そして、「あなたの十字架を背負いなさい」と教えられました。地上で偉くならなくとも、神様はしっかりと神の国に席を用意されています。誰でも人に仕え、そしてイエス様のために、そして人のために十字架を背負うならば、神様は天の国に席をご用意なさるのです。誰でも大なり小なり、いろんな自分の重荷を負っています。その重荷は、負いきれないものであるかもしれません。もし、十字架のように自分自身で負いきれない重荷であったならば、そのままイエス様に預けてしまいましょう。そうすると、背負いきれない十字架も背負うことができてしまうのです。イエス様の十字架の死と復活による希望が、力を与えてくださるのです。そうして、イエス様のように人々に仕えることによって、天の国で、新しい命に与ることができるのです。