箴言2:1-9

知恵に耳を

2023年 2月 19日 主日礼拝

知恵に耳を

聖書 詩編2:1-9 

 今日はソロモン王が書いたとされる知恵の言葉、箴言から み言葉を取り次ぎます。ところで、箴言とは、聞きなれない言葉です。箴とは、待ち針や戒めを指しますから、戒めの言葉という意味です。こんな難しい日本語ですが、英語の聖書では、proverbsつまり「諺」と呼ばれています。諺の方がわかりやすいですね。箴言には、人生を失敗しないような知恵を、書き表した諺が多いと言われています。そして、今日の箇所ですが、父ソロモンが息子レハブアムに送った忠告の言葉なわけです。おや?と思った人が多いと思います。レハブアムと言ったら、いわゆるバカ息子の代表的存在だからですね。せっかく父がイスラエルの王国全土を息子に渡したのですが、すぐに北イスラエルが離脱してしまいました。そしてレハブアムはユダだけを統治することとなって、北王国のヤロブアムと争うようになったのです。この知恵の書の宛先である息子レハブアムの皮肉な顛末は、列王記上12章に書かれています。簡単に紹介すると、「長老の意見を聞かずに、自分に仕えている若者の意見を取り入れた」がために、北イスラエルから見捨てられたのです。長老たちは、「ヤロブアムからの減税のお願いを聞き入れれば、末永く安泰である」と、知恵の言葉でレハブアムを諭しました。一方で、レハブアムは、とりまきの若者の意見によって「父であるソロモン王以上に重税をかける」よう唆されたのです。ダビデの作った王国ですが2代目のソロモン王までしか続かず、この知恵の言葉をソロモン王から教わったレハブアムは、北王国に見捨てられたのであります。

 

 レハブアムが素直に知恵の言葉に耳を傾けていれば、このようなことは起こりませんでした。しかし、彼は、「愚か者」だったのです。父ソロモン王は、その知恵によって国を治め、栄華を極めました。その子レハブアムは、知恵の言葉に耳を傾けずに、ソロモン王以上に贅沢をしようとして、北イスラエルの人々から見捨てられてしまいました。この「愚か者」は、「知恵」や「助言」を軽く見ていたのです。つまり、貪欲さが優って、どんな知恵の言葉によっても、その貪欲を抑えられなかったのです。一方で、知恵のある者は、これらの言葉を「受け取り」ます。そして、真剣に考えて、判断につなげるのです。耳を傾け、覚え、今から何が起きそうなのかを予想し、その対策を捜し、その対策が受け入れ可能かを考え、そして、慎重に適用します。この知恵のある者は、知恵の価値を知っているのです。だから、聞き流すことはしません。同じように、神様の言葉に知恵を見いだす人であれば、聖書に書かれている助言、警告、励ましに耳を傾けることでしょう。しかし、神様の言葉を聞くことを拒否する人もいます。何かに夢中になっていて、聞く余裕のない人もいます。また、聞いているように見えても、同意する気が無い人もいます。もし、神様の言葉を聞く準備や同意する準備がある人ならば、神様の言葉は心の中にとどまるでしょう。なぜならば、「神様は。いつも み言葉と聖霊で私たちを導いてくださっている」からです。


 神様の言葉を頂いても、知恵となって用いることがなければ、何も変わりません。一方で神様は、私たちを導くことに真剣です。迷路のような人生で、進む道に迷っているわたしたちは、正しい道へのガイド役として、神様の言葉が必要だからです。ところで、わたしたちの知恵は、前に犯してきた失敗に基づいています。ですから、その失敗を繰り返さないように考え、行動をとって初めて知恵となります。つまり、未経験のことに関しては、知恵を持っていないのです。そういうわけで、わたしたちは神様が準備されているみ言葉に、耳を傾け、考え、行動に移すと言った、神様の知恵を生かす必要があります。


 宝を捜すように、真剣さを、忍耐力をもって神様のみ言葉から知恵を捜すなら・・・必ず見つかります。神様から頂いた知恵は、宝物だと言えます。宝物は、その価値が高く、そして簡単には見つからないからこそ宝となります。だから、神様の知恵を見つけられなくても、すぐにあきらめたりしないはずです。神様の知恵を頂くことを望んでいるわたしたちは、その手段として聖書を学びます。しかし、その学びには時間がかかるだけではなく、かなりの労力が必要です。それでも、み言葉を熱心に求めて学ぶならば、わたしたちの中に神様の知恵が入って来ます。神様の知恵がわたしたちの中に住み着くと、

「主を畏れることを理解する」ようになる。 そのようにソロモンは語ります。

 なぜならば、主を畏れるということは、神様の知恵に対するわたしたちの正しい応答だからです。「わたしたちは、神様のことを正しく考えるとき、わたしたち自身の罪に気づき、自身をも正しくされる」このことを知るわけです。ですから、まず第一に神様に聞き、神様に従うことが求められています。 

もし、神様の知恵を畏れをもって用いたならば、どんな知識を駆使するよりも、正しい判断・行動をとることができます。このように、神様によってもたらされた「神様への畏れ」は、どんな経験や知識にも優ります。


 さて、真(まこと)の知恵である神様の知恵を知るにはどのようにしたら良いのでしょうか? それは、神様の言葉と聖霊によってもたらされます。「真の知恵」は、聖霊の働きによって神様から頂くものです。現実的で、堅実で、効果的な知恵を、神様は用意しています。すべての人に必要な知恵は、すでに準備されていますし、そして将来のために必要な知恵も用意されているのです。ですから、わたしたちは、この神様の知恵を求めれば求めるだけ、頂くことができます。そのように約束されているのです。

 もう一つの約束は安全です。古代ローマの歩兵が持つ盾のように、敵のすべての攻撃から身を守ることが出来るのです。神様の知恵によって、事に当たれば神様ご自身が、相手の攻撃を無力化します。しかし、神様以外の知恵を用いるのであれば、安全は約束されません。

 「真の知恵」は、そのすべてが神様から出ています。神様が唯一の「真の知恵」の湧き出る泉なのです。一方で、神様以外からの「正しくない知恵」に従ったのでは、異邦人の神々等を崇拝しているのと同じようなことです。そういう意味で、「真の知恵」を選び取る必要があります。

 さて、賢い人は、常に公正で正しいことをして、その賢い特性を維持しようとします。そして、誰も、「ずるい行動」や「人を困らせる行動」をとるように、賢い人に仕向けることはできません。ところが、賢くないわたしたちは、「ずるい行動」や「人を困らせる行動」をとってしまいます。どんなに相手が困っていても、自分の利益を獲得し、目指す物が得られるまで、それをやめることは難しいのです。ブレーキがかかるとしたら、利益を得られて満足した時と言えます。しかし、そうならなかったとき、わたしたちは「考えられるすべての手口」をもって、もっともっと人々を攻撃して利益を得ようとします。

 賢い人とわたしたちの違いは、「ずるい行動」等を、知恵と思わないことでは同じですが、行動力に差があります。賢い人は、徹底的かつ実質的に自身が善であり続けようと努力します。それを怠るわたしたちは「形あるもの」である利益を見て満足します。賢い人は、良かれと思ってしたことも、本当に良いことであったかを相手の立場からも考えて、次の機会はどうしたらよいかを考えて準備します。なぜなら、本当に善であったかどうか、ずるかったのではないかと、そして迷惑だったのではないかと心配だからです。だから、み言葉から知恵を学ぼうとします。そして、得た知恵は「真の知恵」となるでしょう。逆に、狡猾だと言われるような人は、ずるい行動を知恵だと認識して、神様でない者の「知恵」を、崇拝し、実際にその「狡猾な知恵」を使うわけです。この「狡猾な知恵」は、神様から出たものではありません。これは、人から出たものであります。


ですから、「神様だけが真の知恵の出どころだと信じて、まず神様に聞き、神様に従うのが正しい」と結論付けられます。


 この真の知恵を引き出すには、神様のみ言葉に聞き、祈って、そして、行動することが必要です。・・・言葉にすると、いたって簡単ですが、実際にこの実践には際限がなく、一生が学びとなります。


 どうやって学ぶか?と言いますと、まず礼拝に出席しましょう。そして、聖書を読みましょう。  と言いたいところですが、一人で聖書を読んでも、解説がなければわからないことも多いです。ですから、解説書などを読むといった事も必要なときがあります。それぞれ個人個人で学びに取り組みたいです。・・・とは言って見ても、家で一人で聖書を学ぶこと等は、忍耐を必要とします。続けることを考えると、一人で学ぶのは難しいかもしれません。ですからそのかわりに、礼拝でのみ言葉、その約20分を神様に捧げて頂いたら良いと思います。週に20分といえども、神様の言葉に耳を傾け、真の知恵を学ぼうとする人は、神様に用いられる人に変えられていきます。それは、神様がすべての人々を幸せにするために、わたしたちを導いているからです。


 さて、「学びましょう」とお勧めしている神様の言葉ですが、み言葉の中には、たいへんに悲惨なことを「受け入れなさい」との命令もあります。そこまではとても、受け入れられません。それでも、このソロモンの諺は言います。

「神様を畏れること、神様を知ることこそが、私たちが幸となる道筋である」

このことを、私たちに熱心に教えているのです。神様は、わたしたちが自主的に選びとることを期待しています。そのことを知っているわたしたちですから、神様のご命令を受け入れられるようにと、祈るのです。

 この箴言の諺は、わたしたちにとってわかりやすくて有益です。しかしながら、わたしたちは神様の導きなしには「善良」さや「知恵」を、保つことができません。ですから、神様はわたしたちのために「真の知恵」を準備して、わたしたちが安全に歩めるようにしてくださっています。神様自身がわたしたちの盾となり、保護してくださるのです。わたしたちが使うのは「真の知恵」でなければなりません。ですから神様にその「真の知恵」を求めるしかないのです。また、「真の知恵」は人々に幸福を送るために、いつも準備されています。そして、神様は、人々が誤りに陥らないように、まっすぐに歩むように、守り、保護してくださいます。

 さて、私たちの歩む道はどこにつながっているのでしょうか?神様は、わたしたちのためにその歩む道を守ってくださいます。しかし、その道は、裁きの道に通じているのです。神様が守る道は、狭い裁きの道に見えてしまいますが、それは実は広い憐れみの道であり、救いの道でもあります。

『2:7 主は正しい人のために力を/完全な道を歩く人のために盾を備えて』

とあります。ここで神様が与えて下さる「力」は、ご自身が完全に義しい方である神様が、わたしたち「しもべ」を義しい道に導いてくださるということです。さらに わたしたちは、神様から霊的にも導かれていて、

「地上から天国に通じる道を歩く」 ことが赦されているのですす。わたしたちは、すでに神様にとらわれています。そして、神様は「真の知恵」をわたしたちのために、下さっています。わたしたちにはその「真の知恵」を理解するのが難しいですが、神様が一緒にいてくれて、盾のように守ってくださいますし、その知恵を頭ではなく霊によって理解できるよう導いてくださいます。だから、わたしたちはみ言葉に耳を傾け、聖霊が働くようにイエス様に祈ります。み言葉に耳を傾け、祈る。それだけで、神様の真の知恵が聖霊の下で働いてくださいます。感謝なことであります。神様の真の知恵に耳を傾け、祈るならば、わたしたちは幸いなのです。