ルカ7:1-17

憐みの業

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 憐みの業

 聖書 ルカ7:11-17


今日の聖書の記事は、新約聖書にはルカによる福音書にしかない記事です。旧約聖書にはこれと似た預言者の物語があります。預言者エリア(列王記上17:1-24)と預言者エリシャ(列王記下4:1-44)の2つの物語で、息子を持つ母が息子の死に悲しんでいるときに、預言者がその息子を生き返らせるという奇跡の物語です。今日は、預言者エリヤの物語の方を紹介したいと思います。参考までに、預言者エリヤは、バウルの預言者とのカルメル山での対決(列王記上18章)と言う物語で有名です。それでは、神様がやもめを用いて、預言者エリヤを干ばつから守った記事、を共有しましょう。

***列王記17:1-24の要約***

エリヤは預言しました。「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」すると、 主の言葉がエリヤに臨んで、 「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」と告げます。

エリヤは主が言われたようにすると、 数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来ました。水はその川から飲みました。

しばらくたって、その川も涸れ、 また主の言葉がエリヤに臨んで告げます。

「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」

エリヤはサレプタに行って、そのやもめに声をかけ、水とパンを持ってくるようにお願いします。ところが、そのやもめは、もう食べる物が1回分しか無いことを告げます。しかしエリヤは、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならならないと主が告げていると言って、最後の食事のための壷の粉と瓶の油でパンを焼いてもらいました。

こうして、彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠きませんでした。壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったからです。

その後、彼女の息子が病気にかかり、ついに息を引き取りました。

やもめはエリヤに言います。「神の人よ、あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」

すると、 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる部屋に抱いて行って寝台に寝かせました。

エリヤは主に向かって祈りました。

「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」

主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになりました。

女は、「あなたはまことに神の人です」と言います。

***

 

この預言者エリヤの起こした奇跡は、ユダヤ人たちには昔からよく知られていました。預言者エリヤが起こした奇跡が、いまイエス様によって同じように行われたことで、群衆はイエス様をかの大預言者と重ねて理解したと思われます。この福音書を書いたルカは、イエス様の行われた沢山の奇跡や出来事を聞き取って、収集していましたから、このような預言者エリヤと似た奇跡を意図して、書き残したのだと思われます。同時に、群衆は預言者エリヤの記事とイエス様の業を比べて、イエス様をエリヤに並ぶ大預言者として認めていたのでした。

 

今日の聖書の箇所です。イエス様はカファルナウムを離れてナインの町に来ています。ナインはナザレの町の南東5kmぐらいのところの小さい町です。ちょうどカファルナウムから南西35kmぐらいで、一日歩けば着きます。ここに大勢の群衆といっしょにイエス様が、ナインの町の入口まで来るわけです。当時の町と言うのは、大きい町は城壁で囲まれていましたし、小さな町でも住む場所とそうでない場所が区別されていました。特に井戸を掘っても水が出るところが限られている地域なので、住める場所が限定されます。家を建て替えるときに、井戸や泉がある場所の傍にしか建てられず、結果として、今ある家を崩したその上に建てるということが続けられます。そうやって次第に町が丘の様になってきます。そうして出来た町の丘を「テル」と言いますが、テルに見られるような住宅密集地では、狭くて入り組んでいますから、町の中にお墓を作るようなスペースはありません。それに、火葬の習慣がないユダヤの町では、棺のまま墓に入れます。そういう事情から、町の門の外にあるお墓に、亡くなったその日のうちに葬るのです。


 さて、イエス様が町の門に近づくと、『ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。』とあります。この日本語約(新共同訳)では、棺と書かれていますが、原語では、「その一人息子が運び出されていた」となっています。この息子は生き返ると、起き上がるのですが、棺にはいったままでは起き上がることはできません。ですから、普通の棺で運ばれたわけではなかったのです。14節に棺との言葉が出てきますので、これが参考になります。原語は、ソロス(σορός)という言葉で、遺体を置く台、または上の空いた棺を指します。そこから読み取れることは、その葬式は、だいぶ簡素なものだったという事です。 簡素な葬式と言っても、大勢の町の人が出て付き添っていました。母親はやもめで、亡くなったのはその一人息子です。一人で息子を育て、そしてやがては息子が一人前になる事を夢見ていたのでしょう。しかし、この現実は厳しいものです。愛する一人息子を失っただけではありません。息子を育てる生きがいも、老後の支えも一度に失われたわけですから、誰から見ても憐れであります。そして、町の人々はそのやもめに付き添ってくれています。そして、やもめに話しかけてあげたことでしょう。ずいぶんと、慰められたことだと思います。しかし、町の人のそういった支えがあっても、やはり、本当の意味の慰めと、完全な癒しとはなりません。そこでイエス様は、そのやもめの様子をご覧になって、『憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。』のです。イエス様はここで、本当の意味の慰めと、完全な癒しをご用意なさるのです。聖書は続けます。

『そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。』

 

イエス様は、そのやもめの所からいま担ぎ出されようとしている棺の方に向けて近づいていきました。そして、イエス様が棺に手を触れられると、棺を担いでいる人たちがみな立ち止まってしまいます。イエス様が棺を触ったことに気が付かない担ぎ手の方が多いはずです。しかし、なにかを感じたのでしょう。するとイエス様は、『若者よ、(あなたに言う。)起きなさい』と命令されました。

驚くべきイエス様のご命令です。死人に起きなさいと言うわけですから、普通は考えられません。しかし、そのイエス様に命令された死人は起き上がったのです。棺とはいっても、死体を運ぶだけの台に寝かされていたその死人は、その棺の上で体を起こして、話し始めたのです。イエスはその生き返った息子をその母親にお返しになりました。その母親の失った息子の命と一緒にこの息子とのこれからの人生をイエス様はお返しになりました。本当の慰めと、完全な癒しであります。

 

聖書はこの様に続けます。

『7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。』

 

人々は、イエス様の起こした不思議な業の前に恐れました。ある人々は、イエス様の力を見て、大預言者だと言いました。そして、ある人々は神様のされる業だとして神様に感謝しました。

また、聖書には書かれていませんが、このやもめの母親は、孤独となってしまった絶望から、元の生活に戻されました。また、息子を無くすなどという事は、やもめ自身の罪によるものではないかと、自分で自分を責めたことでしょう。このやもめは、そういった自身の負い目からも救われたのです。

ところで、この記事の中心は、イエス様がやもめの子供を生き返らせたことその出来事自身なのでしょうか?。イエス様がこの奇跡を起こされたその目的は、このやもめを「孤独と自責」の念から解放してあげることだった。やもめに生きる希望を回復してあげることを、イエス様が願われた。わたしは、そのように考えています。イエス様は、やもめの悲しんでいる姿を見て憐れみました。イエス様は、悲しんでいる人、悩んでいる人、孤独な人をお見過ごしにはならないのです。この悲しんでいるやもめにイエス様は直接お会いになって、その奇跡の業をお示しになりました。イエス様が、寄り添ってくださったのです。そして、私たちの上にも、悲しんでいるときも悲しんでいない時も、実は気が付かない時でも、いつもイエス様は寄り添ってくださっているのです。

 

さて、このやもめの息子は生き返りました。しかし、永遠の命を得たわけではありません。この息子はいずれ寿命を全うする時が来ます。しかし、 やもめ にとっては、イエス様が憐れによって「もう、泣かなくても済む」ほど、世界が大きく変わったのです。イエス様が息子を生き返らせたことで、このやもめは、永遠の命を頂いた。そういう物語だと思います。・・・私たちは、死んだ人が生き返ると言う物語に注目しすぎて、「有り得ないこと」だとか、「神様だからできること」だとか 奇跡の方にとらわれがちです。しかし、それだけがこの物語の中心ではありません。イエス様が救ったのは直接的にはその息子ですが、本当の意味では、このやもめでした。今日の物語のもう一つの中心は、「生きる希望を失った」やもめを憐れんだイエス様が、やもめの「生きる希望を取り戻した」ことであります。しかも、完全な姿で取り戻してくださったのでした。イエス様は、この場面で やもめの息子が「死んでいたのに生き返る」という業を行いました。それは、イエス様は憐みをもって、やもめが「生きる希望を取り戻す」ように寄り添ってくださり、最善で完全な癒しを与えてくださるためだったのです。

 

宗教改革のきっかけを作ったマルティン・ルターは、神様の「憐み」について「旅のお弁当」と言う名の聖書日課に この様に書いています。

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私たちの天の父なる神様は、どのように憐れみ深いお方なのでしょうか?

神様は私たちに肉体的にも霊的にも必要なすべてのものを、一時的に必要なものや永遠に必要なものを、「賜物」として、まったくの善性によって与えてくださいます。もしも神様が私たちの行いに基づいて報酬を与えなければならないとしたら、神様は私たちに地獄の火と永遠の滅びを与えるほかないからです。神様が私たちに財産や名誉などを与えてくださるのは、純粋な恵みです。神様は私たちが死につきまとわれている状態を見て、憐れに思い、私たちに命を与えてくださるのです。神様は私たちが地獄の子であるのを見て、かわいそうに思い、私たちに天国を与えてくださるのです。神様は私たちが裸でお腹をすかせ喉が渇いているのを見て、私たちに服を着せ、食べ物を与え、あらゆる贈物によって養って、

私たちを憐れんでくださるのです。それゆえにキリストは、「あなたがたは自分のお父様に倣いなさい。そして、お父様が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」、と言われているのです。

(マルチン・ルターの旅のお弁当)

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私たちは、生活のすべてをイエス様の憐みによって支えられています。私たちは、何か問題が起こった折々にイエス様に依り頼んで祈り、求めますが、その以前から、イエス様は私たちを憐れみ、養ってくださっています。私たちに足りないものは、イエス様がもともと補ってくださっているのです。イエス様は憐れみ深くて、私たちの知らない間にも私たちを憐れんでくださいます。そして、私たちはイエス様の憐みによって、滅びることも無く、名誉や財産を得、命と天国を与えられ、服を着せ、食べ物を与えられているのです。

それだから、私たちはイエス様の憐みをうける恵みと、「イエス様の憐みに倣う」喜びとに与れるのです。イエス様の憐みに倣う時が来たら、その喜びに与れるよう、イエス様の憐みを日々感じながら、その恵みに感謝してまいりましょう。