マルコ1:29-39

癒しを信じる


 2022年 6月 19日 主日礼拝

癒しを信じる

聖書 マルコによる福音書 1:29-39 

 今日は、6月の第三日曜日なので父の日です。父の日は母の日と同じようにアメリカの教会で始まりました。父親の誕生日を記念した個人的な礼拝がはじまりでした。5月第二週の母の日同様、6月の第三週を父の日としたものです。特に父の日としての教会行事はありませんので、家に帰ってからそれぞれのお父さまを覚えて、神様に感謝のお祈りしましょう。

 今日はマルコによる福音書から、み言葉を取り次ぎます。

 

 今日の聖書は、癒しがテーマになっています。まず、この箇所を理解するために、当時の人々が「癒し」について、どのように考えていたかを簡単に3つ説明したいと思います。

 

 まず、一つ目ですが、怪我、病気について、それが、外科的・内科的・または精神科的な疾患であろうが、戦争や事故による怪我であろうが、すべてが神様の意思によって行われているとの考え方を持っていました。ですから、その反対の「癒し」も神様の意思によるものだという考えるわけです。医学がさほど進歩していない2000年もの昔のことですから、治療法がないことも多くて、その場合神様に祈るしかなかったのだと思われます。 

 二つ目は、人の犯す罪が病を引き起こすという考え方です。サタンなどの悪霊が人を罪に陥れるために、病にかかるという考えです。もしそれが正しい考えであれば、罪が赦されるとともに病も癒されるはずです。

 そして、三つ目ですが、それはイエス様による罪の赦しです。イエス様は、人の罪を赦す権威をお持ちです。すべての怪我や病気は、私たちの罪によって神様が起こされたことです。イエス様のとりなしで、神様が私たちの罪を赦されるのであれば、どんな怪我や病気からも癒されるのです。

 もちろん、この当時も医者はいました。例えば、福音書を書いたルカは医者だったと言われています。医者の治療で治らないときに、イエス様のところに来て、病の元となっている悪霊を追い出してもらったり、犯してしまった罪を赦してもらったりしたのだと言うことです。ここに、現代人なら指摘したいことがあります。それは、悪霊を追い出したり、罪が赦されることで、傷が治ったり、病が癒されることがあるのか?といった疑問です。そもそも、悪霊や罪が怪我や病気を引き起こすとは、考えない人のほうが多いでしょう。しかし、少なくとも福音書の記事を読むと 病人に何かが起こって「癒された」ことは確かなようです。それが、肉体的に癒されたのか? 霊的に癒されたのか?は、聖書を読む限りでは判断が付きません。

 

 さて、前置きが長くなってしまいました。シモン(後にペトロ)とアンドレの兄弟とヤコブとヨハネの兄弟、この四人を弟子にしたイエス様は、カファルナウム(ガリラヤ湖北岸の町)の会堂で教えていました。このときイエス様は、汚れた霊に取りつかれた男から、その汚れた霊を追い出しました。その後、すぐにシモンとアンデレの家に行きます。夕食を取るために行ったシモンの家には、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていました。そのために、さっそくイエス様に癒してもらおうということになります。先ほど説明しましたように、病はすべて神様のご意思によるものと考えられています。ですから、イエス様が悪霊を追い出すか、神様が罪を赦して下さるならば、病が治り、熱も引くと、期待したわけです。

『1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。』

 イエス様がシモンのしゅうとめの悪霊を追い出したのか、罪を赦したのか

については、書かれていません。どちらでもないとすれば病そのものを癒したという事になります。そして、熱を出して寝ていたのに、体力的にも元通りに回復しています。なぜなら、そのまま一同をもてなすことが出来た と書かれているからです。

 夕方になって、それぞれが食事を済まして、イエス様のもとに人々が集まってきます。病人や悪霊に取りつかれた者を癒してもらうためです。そして、その様子を見に町の人々が集まってきました。このようにして、イエス様は多くの人たちのいろいろな病気を癒しました。そして、多くの悪霊も追い出しています。イエス様は、このとき「悪霊にものを言うことをお赦しにならなかった」とあります。ルカによる福音書の並行記事を見ると、

ルカ『4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお赦しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。』

このように書かれています。イエス様は、ご自身が「神の子」であると悪霊から言い広められたくなかったことが伺われます。

 

 翌朝早く、イエス様は、カファルナウムの人里離れたところで祈るのですが、町の人がイエス様を捜していることを知ると、「ほかの町や村へ行こう」とおっしゃりました。カファルナウムの人々にとっては、イエス様がカファルナウムにとどまって、癒しをし続けていただくことを望むでしょう。しかし、イエス様は、多くの人々の救いのために、伝道をしに来られたのです。それは、「神の子」であるイエス様が、多くの人を信仰に導き、そして私たちの罪をお赦しになる事であります。やはり、イエス様は多くの人々に伝道をするために、ガリラヤ中の会堂に行く必要がありました。そして、各地の人々の信仰を認めて、その人々の信仰によって罪を赦されたのです。マルコによる福音書の中で、信仰を見て罪を赦されたのは、今日の聖書のすぐ後にある「中風の人を癒す」が最初の記事です。

『2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。』

 このように、イエス様は人々の罪を赦しながら、方々の会堂を回られていたのです。

 

 さて、これまでイエス様の癒しについて、お話してきました。イエス様の癒しには、病を治す、悪霊を追い出す、体の傷・心の傷を元通りにする、霊的に満たされる、命をとりもどす等、様々なしるしが行われます。私たちは、このイエス様のしるしをどのように受け取れば良いのでしょうか? 「イエス様は何でもできる。そして、聖書に書いてあることこそが真実である」と受け止める人もいれば、「なにかのしるしがあったのは確かである。しかし、科学的に説明ができないような所謂「奇跡」が起こったのではなくて、その癒しの出来事を伝承した人たちには、そのように見えたのだ」と考える人もいます。今言った2つのとらえ方は、真反対なので、たぶん議論してもかみ合わないように感じられます。しかし、どちらも正しいのだと私は思います。なぜなら、前者は「信じられない出来事をイエス様が起こすこと」を、後者は、「信じられない出来事を目撃した人の信仰」を認めているのです。ですから、本当に起こったかどうかは、分けて考えましょう。結果として、ここで言えるのは、「イエス様は何でもできる」とそのまま信じるのか、奇蹟の出来事の証を聞いて、「何かが起こった」ことを信じる のかの違いはありますが、イエス様に「特別な力がある」と信じることでは、一致していることです。

 次に、本当に「奇跡」があったことかどうかを検証しようとします。当然、情報が少なすぎるので、検証することは難しいですね。例えば、今日のシモンのしゅうとめが熱で寝込んでいたのに、急に元気になって、みんなをもてなしをし始めました。これだけの記事では、ほとんど手掛かりがありません。

 シモンのしゅうとめは、何の病気だったのでしょうか?。私たちが知っている範囲では、寝ていたのに急に治って、すぐに立ち上がって働きだせるような「重い発熱をともなう病気」は思い当たらないと思います。そうすると、本当に病の癒しと体力を一気に取り戻したのか、心の病が癒されたということが推定されます。(注:目撃した事実をもとに福音書が書かれているとの前提ですから、嘘や誇張はないと考えてください)と言うのは、すぐに立ち上がって働きだせたのは、体力も一気に回復したのか、もしくは、もともと体は元気で心の病で発熱し寝込んでいたかの二つしかないと考えられるからです。しかしながら言えるのは、この2つの癒し(体の癒しと心の癒し)があったかどうかを決定づける証拠はないことです。イエス様がそこにおられて手を差し伸べたこと、そしてシモンのしゅうとめは、発熱で寝込んでいたのに、起き上がってみんなをもてなしたということ。そのことだけが証言されているわけです。つまり事実なのは、「そのような証言」が記されている事 なのです。私たちは、その証言を信じるのか信じないのかが問われたら、どのように答えるのでしょうか?。もし、そこに癒しがあったことを信じるならば、客観的証拠がないのに信じることになります。また、癒しがあったことを有り得ないとするならば、客観的証拠がないのに癒しがあったことを否定することになります。ここですこし、整理しましょう。まず認識しておかなければならないのは、信じることと信じないことは、客観的証拠で証明できないということです。なぜなら、証明されたものは、すでに事実だからです。事実と分かったその時から、信じる対象ではないのです。ですから、信じる、信じないという事を、論理的に解決しようというのは、適切ではないのだと思われます。そういうわけで、信じるという事は、解き明せるものではなく、個人の感情に基づいていると言えます。「こうあってほしい」と願う自分自身の願望が含まれますから、思い続けていることそのものだとも言えるのです。

 私たちはイエス様の癒しの記事を読むとき、イエス様が不思議な力を持っておられることを証明することが出来ませんし、そしてイエス様にその不思議な力があるわけがないと証明することもできません。私たちには、その癒しが実際におこなわれたかどうかも、「どうやれば癒せる」のかも、「どうやっても癒せるわけがない」とも説明することができません。ですから、私たちは「癒しの業」を信じられるかどうか、迷ってしまうのも当然です。そして、色々な人の意見を聞くと、なお一層迷ってしまうかもしれません。しかし、イエス様はそういう私たちにしっかりと、信仰を与えてくださいます。私たちは、イエス様の言葉によって、そしてイエス様の導きによって、イエス様を信じるようにこの今も育てられているのです。そのようにして、イエス様が私たちを導きますから、「イエス様の行われた癒し」を、そして「証しする人々の体験」を信じることを通して、私たちの信仰は常に新しくされていくのです。

 イエス様の癒しを、すぐに受け入れる人は幸いです。イエス様が、その人に信仰を与えられ、そこで信仰が育ちはじめているからです。そして、イエス様の癒しが「しるし」だと考えて、何事が起ったのかを追い求める人も幸いです。イエス様は、さらに信仰を強めてくださるでしょう。また、癒しなどの奇跡は起こるはずのないとことだと考える人も幸いです。イエス様は、起こるはずのない奇跡を起こすお方だと、イエス様をより強く信じる機会が与えられるからです。どうぞ、皆さん、イエス様から信仰をもっといただくように、祈ってください。イエス様を信じる私たちは、イエス様のとりなしによってのみ、罪から解放され、そして癒されるのです。イエス様を信じる信仰は、私たちが持っているものではありません。イエス様から信じる心を、そして赦しを頂いてまいりましょう。