コヘレトの言葉12:1-2

創造主に心を留めよ   

1.青春の日々に

 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留め苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。

この聖句は、「汝の若い日に汝の造り主を知れ」と文語調の方が有名だと思います。長年生きてきた人が、一生懸命生きてきて「喜びはない」と悟るのは、もう遅すぎです。若いうちは、楽しいことだけをして暮らす。そのしわ寄せで、後で苦しみの日々が始まるかもしれませんし、実際に年を取ってから、喜びが感じられなくなる。そうなる前に、創造主である神様に立ち返ることが必要です。残りの人生がなくなってしまう前に、そして後戻りできなくなる前にです。

 人として何よりも大切なことは、「創造主を知ること」です。創造主を知らない生活を続けていては、どんなに良い生活をしていても、どんなに尊敬を集めていたとしても、「空の空」から抜け出ることはできません。すべては、天国に持っていけないものです。私たちは死んでしまったら、地上にすべてを置いていかなければなりません。そして、その地上の物も名前もやがては、消え去るのです。

 あるイギリスの老説教者が、言いました。「信仰生活が長いと、苦しみから遠ざかると考えるのは間違いです。私は若い時よりも年を取った今ほど信仰の試みは大きいと気づいた。それは、若い時は自分で出来たが老いた今は誰かに依存せねばならない…」。

彼は一年前に妻を天に送っていました。つまり、若い時は自分でできた。そして、年をとっても妻の助けで十分やっていけました。そして、妻が亡くなると、ようやく自分に助けが必要なことを知るのです。説教者として立っていた自分が助けを必要とすることは、受け入れがたい事だったかもしれませんし、また、それを受け入れることによって その信仰の試みを乗り越えられたのだと思います。つまり、その世話が必要になるときに至って、イエス様に本当に出会って、そしてその手助けを感謝して受け入れたのです。

このみ言葉は、「年を取ってから信仰をもってもだめだ」と言うのではありません。むしろ、老年ほど困難は大きくなる。だから若い時に創造主を知り、訓練を受け、年老いても信仰を奪われず、むしろ自分で出来なくなった分だけもっと主に信頼して歩むためにその心の準備が必要だ」と言っていると思います。

若いうちにとは、いつのことでしょう? いずれ、だれかと比べれば、より若いはずです。10年後ではなく、今年。来月ではなく今月、明日ではなく今日 創造主に立ち返りたいものです。

 2.太陽が闇に

  太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

 神を知らない人々は、神様の創造の業のその意図も知りません。ですから、原始のときから人は、太陽が隠れて光を失い、星と月明かりも消え、大雨に流されて失せることを恐れて生きてきました。まさに人生の晩年にそれを迎えるのが恐ろしいのです。それらに備え、その時に負けずに生きるには何が必要なのでしょうか。それは、「神を知る事」です。

神を信じる人にとっての神とは、

であり、主であり、牧者であり、友であり、そして僕なのです。

  あなたの救いは誰によってもたらされるのでしょうか?イエス様の力が必要なのです。力自慢やお金持ち、面倒見の良い友達もあなたの力になってくれるでしょう。しかし、私たち人間の力では、自らを救うことができないのです。それどころか、「人が人を支配しようとするから苦しむ」ことをコヘレトは気が付いています。コヘレトは、もはや人間と人間の関係では、自らの救いは起こりえないと考えたのでしょう。そして、もはやそこに頼れるのは、創造主たる神様しかいないのです。圧倒的にそして一方的に私たちを見つめて、手を差し出しているのは神様なのです。太陽がなくなって闇になってから、泣き叫ぶ。雨の後に、また雲行きが怪しくなってきてから泣き叫ぶ。そのようなことはいらないのです。太陽が明るいうちから、創造主たる主を知ろうとすればよいのです。