コリントの信徒への手紙一14:1-25

異言

聖書研究

1.異言

 「異言」とは、霊の働きかけによって人に起こることです。平常心では起こらないような、特殊な心の状態の中で、霊的に語り出すことを指します。

(新共同訳注解:一般の人には理解しにくい信仰表白の言葉。コリントの信徒への手紙1の12章,14章によると,異言を語る能力は聖霊によって与えられる「霊的賜物」(カリスマ)の一つである。)

 それは、たぶん祈りや神様への賛美なのでしょう。聞いていても、誰もその内容はわかりません。話している人自身でさえ、何を話したかを憶えていないのです。異言を理解可能なものとするには、もうひとつの恵みの賜物、「解き明かしの賜物」が必要です。この賜物は、単純に言えば、異言の内容を聴き手に伝えるために通訳する能力のことです。これも、霊的な賜物であります。

2.預言

 異言で話す人とは異なり、「預言」という霊的な賜物を与えられている人は、言語的に理解可能な言葉で預言します。しかし、預言も霊の働きによるものであり、その言葉は話し手自身から生まれたものではありません。神様の御霊がその人に、その人自身は考え及びもしなかったことを示すのです。

(新共同訳注:神の霊感を受けた人(預言者)が語る言葉。本来の意味は,神(あるいは他の人間)のために,代わって語ること。神の意志によって起こる出来事,神の裁きと救いについての告知である。新約では,主として旧約の預言者が語ったメシアの到来に関する言葉を指す(マタ 1:22,2:5,使 3:25)。初代教会の場合には,聖霊に感じて語る言葉の意味である(1コリ 14:1-5)。)

 預言は、未来の予言とは限りません。むしろそれは、「神様が預言者に、人々には見えていないことを見せる」ことを意味しています。たとえば、24~25節によれば、預言者は人々の隠しておきたい秘密さえも見ることができるのです。

3.賜物の用い方

 これらの賜物はコリントの教会でどのような問題があったのでしょうか?。そして、パウロは、どんな指導を考えたのでしょうか?。

 異言の最大の問題点は、「誰も異言の内容を理解できない」ことです。コリントでは、このことを問題とする人はいなかったようです。しかし、パウロにとっては問題でありました。コリントの信徒たちが異言で語られた言葉を受け止められないのであれば、コリントの教会にとって異言は無益になってしまいます。異言を話す人とその聴き手とが互いに理解し合えないかぎりは、異言は騒がしいだけで、教会の信仰や成長に何ら寄与しないからです。

『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』

 パウロが異言をもって、その国の人を使って語っても、耳を傾けてはくれない。と嘆いているわけです。長い異言や異邦人の言葉で語られた後、「アーメン」と唱和しますが、異言で話し手がいったい何を話したのか、聴き手には見当もつきません。こういうわけですから、優れた異言の話し手であるにもかかわらず、パウロは、「教会の礼拝では異言を用いるつもりはない」と言います。異言の内容を解き明かす人がいないところでは、異言を用いるべきではないのです。

 パウロによれば「異言」と異なり、「預言」や「教え」を行うこと は教会の礼拝の中で行ってもよいことであります。パウロ自身この働きを高く評価しています。ただし、どんな内容でもよいというわけではありません。この点に関しては、きちんと秩序を守らなければなりません。同じ礼拝の中で、複数の預言をする人を立て、話をしてもらうことができます。しかし、問題は量より質です。預言で大切なのは「吟味すること」すなわち、預言をする人が信仰によって話しているかです。もし、そうでないと評価する人がいるならば、問題です。預言する人もそれを聞く人も、まず自分が信仰によって話しているか、信仰によって聞いているかを吟味しなければなりません。

 また、預言することも、教えることも教会の秩序に配慮が必要です。聞き手に分かりやすいことも必要ですし、自慢話や世間話、名誉欲などによるお話は無用なのであります。すべては、信仰にそった「預言」「教え」であるためには、神様により頼む祈りが必要です。