使徒8:26-38

 フィリポの証

2021年 6月 20日 主日礼拝

フィリポの証

聖書 使徒言行録8:26-38

今日は、使徒言行録からフィリポとエチオピアの宦官のお話です。

フィリポは、7人の執事の一人です。そして、聖霊がイエス様の弟子たちに降っていましたから、聖霊が共に働いていました。そんなフィリポに神様からの命令が下ります。

『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』

エルサレムにいたフィリポに対して、ペリシテつまり、現在のパレスチナ自治区のガザの町に行くように命令が出ました。ガザは海の道と呼ばれるエジプトとアジアを結ぶ街道(Central Ridge Road)にある町です。エルサレムからは、尾根を通る街道を約30㎞南下してヘブロンについたら、細い道を60kmほど西に進んだところにあります。エジプトに出るには、ヘブロンで西に出ないで尾根の道を進むこともできますが、この宦官は馬車に乗っていますので、起伏のない道を選んだと思われます。神様は、その宦官がガザを通るルートをとることを知っていたのです。この宦官は、フィリポの聖書の解き明かしを、そしてイエス様の証を聞いて、すぐにイエス様を信じ、そしてバプテスマ(洗礼)を受けます。するとフィリポは、神様によって30kmほど北のアゾトの町に飛ばされます。要約するとこのようなエピソードです。

ところで、この宦官はどうしてすぐに信じることが出来たのでしょうか? それは、フィリポが聖霊の力を得て、そしてイエス様を信じる信仰の核心の部分を宦官にお話できたからだと思われます。その信仰の確信とは、イエス様の十字架による救いを受け入れる事です。それでは、フィリポがどんなお話をしたのかを読み解いていきましょう。

 

さて、カンダケです。誰の事かご存じでしょうか。 現在のスーダンにあった古代メロエ王国の女王の称号だそうです。旧約聖書では、クシュという地名がたくさん出てきますが、それが今のスーダンの地域です。スーダンですので、エジプトとエチオピアの間ですね。そして、この宦官は女王の財産を管理していましたので、その取引のために、外国に出ていたと思われます。そんな関係で、外国に住むユダヤ人の様に、年に一回エルサレムに礼拝に来ていたと思われます。ちょうど過ぎ越しの後の50日の祭り(ペンテコステ、5旬祭、7週の祭り)にエルサレム神殿を礼拝したと思われます。そして、その宦官は国に帰るその道すがら、イザヤ書を読んでいたようですので、神様を信じている人だと言っても良いでしょう。神様は、この機会にフィリポを宦官に引き合わせたのです。その直接の結果かどうかはわかりませんが、古代メロエ王国は、キリスト教の国になりました。このことは、聖書には書かれていません。

 

宦官が読んでいた聖書の箇所は、イエス様の十字架を預言したところです。

イザヤ『53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。』

これも、神様のご計画なのでしょう。この箇所を読んでも宦官は、この意味がわかりません。そこに、フィリポが追い付いてきて、声を掛けたわけです。宦官は、この預言がイザヤ自身のことなのか、他に誰かが現れるのかをフィリポに聞いてきました。まさに、この箇所はイエス様を預言したところですから、フィリポが宦官にイエス様のことを証しするチャンスが与えられたのです。

フィリポは、イザヤの53章を使って、イエス様のことを話しました。そのイザヤ53章の前半、つまり宦官が読んでいた箇所の前を、お読みしたいと思います。

イザヤ『53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。』

 

最初の部分は、原語から直訳すると

「誰が私たちの見たことを信じるのか?そして、誰に神様の御手の力を示されたのか?」です。

これを素直に読むと、

「誰も信じられないことを私たちは見た。神様はこの人(イエス様)に御手の力を示された。」という意味に受け止められます。

宦官の質問「イザヤ書に書かれているのは誰のこと?」への「答え」だと思います。

 

フィリポは、このイザヤ書に書かれていることを自らイエス様と共に体験しました。そして、その体験を通してイエス様を信じています。また、イエス様を信じる者には神様の御手の力が示されていますし、フィリポはほかの弟子たちと共に聖霊を頂いております。そして、フィリポは、イエス様の十字架と復活の出来事に立ち会ったことで、このイザヤ書がイエス様の預言だと確信を持ちました。その確信と聖霊の働きによってフィリポは力が与えられ、イエス様の証をしたのでした。

イザヤ書の次の節では、イエス様は「乾いた地に埋もれた根からはえ出た若枝のように育った」と書かれています。神の子として注目されずに、生まれ育ったイエス様。しかし、イエス様は「神様の前に育った」といわれています。このイエス様にどのような神様のご計画があるか、誰も知らずにいました。知らないばかりか、人々はイエス様を軽蔑し、見捨てました。人々は、何の罪も犯していないイエス様を捕らえ、裁きにかけて、ついに十字架に掛け、イエス様は惨めな最期を遂げられました。しかし、「イエス様が担ったのはわたしたちの病、イエス様が負ったのはわたしたちの痛みであった」と告白されています。イエス様が負ったこれらすべての苦難は、「わたしたちのため」であったというのです。イエス様は、「わたしたち」の痛みや苦難を引き受けてくださったのです。しかし、私たちはイエス様が神様によって打たれたのだから苦しんでいるのだと思っていました。振り返ってみると、『イエス様が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/イエス様が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。』のです。イエス様の受けられた傷によって、私たちの背きや咎は贖われ、イエス様の犠牲によって私たちは癒されました。

私たちは、道を誤り、罪を犯していました。キリスト教でいう罪とは、犯罪の事ではありません。神様を知らないことや、他の神を礼拝すること、そして神様に背くことです。また、咎とは、過ちやしくじりです。その私たちの罪と咎を、神様はイエス様に負わせたのです。

 

このイザヤの箇所では、イエス様の生涯を知らされた「わたしたち」が、十字架の意味を問い直されます。イエス様の十字架によって与えられた深い喜びを、そしてイエス様を賛美する歌であります。

 

この歌は、それだけではありません。フィリポ自身の証であります。ようやく今になってイエス様の苦難の意味を知ったフィリポが、「イエス様の十字架によって、イエス様を信じ、そして今罪が赦されて生かされている。」その証をフィリポはします。・・・フィリポはイエス様を信じているからです。・・・人がイエス様を信じたとき、罪や、病や、痛みの全てをイエス様は引き受けてくださいました。イエス様の十字架の贖いの故に、わたしたちの罪も許され、病める者も、痛みを覚える者も癒されました。こうして、イエス様を信じる者はみな罪が赦され、死の苦しみから解放された喜びの中にいることを、フィリポは証ししたのです。

 

旧約聖書の時代では、罪を犯した人の贖いのために傷のない動物を犠牲として奉げ、神様に執り成しをしました。伝統的に、ユダヤの人々は生贄を捧げることでその罪を贖いました。その生贄に、ユダヤの王となられるはずの救い主がなるとは、とても考えられませんでした。

だから、このようなイエス様の死を知る群れは、『わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか』という驚きを抱くのです。

 

ユダヤの人々がそれまで知っていた救い主の姿は、身の丈があり、容姿も良く、健康で頑健な姿だったのでしょう。そして、全てが栄光に満ちた繁栄をもたらすというものだったと思われます。その様な姿をしている「ユダヤの王」なる人が自分たちの救い主になるのがふさわしいと彼らは考えていたのです。

 

しかし、十字架の時「救い主らしい面影のない」イエス様は、わたしたちの病を負い、わたしたちの罪のために打ち砕かれ、私たちの背きのために刺し貫かれるという、すべての苦難を背負われました。そのイエス様が背負われた苦難によってこそ、わたしたちの罪が赦され、そして、わたしたちの痛みをいやされるのです。このことは、私たちを愛してくださる神様がご計画されました。神様は、神の子イエス・キリストをわたしたちの赦しと癒しのために、生贄としてこの世にお降しになったのです。・・・そしてイエス様は、そのことを受け入れて下さり、わたしたちの罪のために十字架に掛けられたのです。イエス様は、わたしたちの罪を背負いになったまま、わたしたちの罪を一緒に十字架に掛けてしまわれました。そうして、わたしたちの罪は許されたのです。

「わたしたち」が、イエス様によってわたしたちの罪が担われ、赦されたことを知ったのは、イエス様の弟子たちの宣教を通してです。そして、イエス様のみ言葉を受け入れ、信じたとき、本当に赦されたことを実感するのです。

 

私たちの人生には、多くの困難があります。そうした困難は、人生の可能性を奪う場合もあるので、失望することもあります。そんな時、イエス様のことを信じ、そしてイエス様に委ねて祈ってください。もちろん、そうでない時も祈りましょう。イエス様に祈りながら、イエス様とおしゃべりをしてみてください。最初は、イエス様にぐちを言っているような祈りでもよいのです。イエス様を信じて、委ねて、祈っていくうちに、私たちの中には平安が訪れるからです。私たちは赦されているのです。そして、祈りは、聞かれます。祈りは、思いもよらない方法でかなえられます。イエス様はそういう方です。ですから、最初に祈ったとおりにならないかもしれませんが、祈り続けることによって、祈りは聞かれるのです。イエス様の十字架による救いを受け入れ、そして祈り続けてまいりましょう。そこには、主の平安があります。