ヨハネ10:7-18

私は羊飼い

 

1.羊と羊飼い

 聖書では、羊をたとえに使います。羊は、私たち人間の事を指しているわけです。その羊の特徴は次の通りです。

①臆病 :何かあるとパニックになって逃げだします。そのパニックが連鎖するのと、さらに収拾がつかなくなります。そのために、羊飼いはすぐに落ち着かせる必要があります。

②身を守るために群れる :羊は、いつも集団行動をとります。そして、寝る時も群れで寝ます。これは、襲ってくる動物に数で対抗するためではありません。群れが襲われても、数が多ければ、一匹一匹が生き残れる確率があがるからです。人聞きが悪いですが、一匹の犠牲によって、他の羊たちが生き残るわけです。

③倒れると自力で起き上がれない :本当に、羊は何もできないのです。羊飼いが見てあげないと、生死にも関わります。

④襲われたら、対抗できない  :逃げ足が速いとか牙があるとか、鋭い爪があるわけではありません。襲われたら最後、そのままやられるのみです。

⑤群れからはぐれたら戻って来れない :方向音痴で、さ迷うだけで、自力で戻ることが出来ません。

 さ迷う人間を羊にたとえると、羊飼いは「イエス様」と言うことになります。羊を四六時中面倒を見ないと、羊たちはバラバラになっていなくなったり、パニックを起こして暴れたりします。また、食事や水を用意してあげなければなりません。羊たちには、自覚がありませんが、イエス様はいつも見守り、そして導いてくださっています。だから、羊たちは、何もしなくても必要を満たされていますし、危険なことから守られるわけです。そうして羊は、羊飼いのことを憶えるわけです。

2.私は門である

 イエス様は御自身を「羊の門」であると言いました。羊の門とは羊が出入りするための、囲いの門です。

「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」とは、ユダヤ教の指導者たちを指しています。盗人や強盗とひどい言い方をしています。当時のユダヤ教の指導者(ファリサイ派の人々等)たちの傲慢に対するイエス様の痛烈な批判です。ユダヤ教の指導者たちが羊の群れに入ってきて、羊を奪っていこうとしているので、門であるイエス様は、その侵入者から羊を守ると言うわけです。

そして、ここではイエス様が神の国に人々が入る唯一の入り口であることを、羊の門にたとえています。

門が羊をまもっていることと、門が唯一の神の国への入り口であることは、同時に景色として浮かべるのは困難です。「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」とイエス様は言っていますが、イエス様は、人間が豊な人生を送れるように、必要なものを与え、危険から守っていることを譬えています。

3.私は羊飼いである

 預言者エゼキエルは、イスラエルの指導者たちを牧者に、民を羊に譬えて語り、その牧者たちが羊を食いものにしている罪を裁きました。この牧者たちに代わって羊である民を養い救うメシアの預言がなされました。エゼキエル『34:22 しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。34:23 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。』

良い羊飼いは、羊を守るために命を捨てると言います。羊飼いは、外敵に対して羊を守るために勇敢に戦い、ある場合には傷を負うことがあったようです。自分の羊を持たない雇人とは、羊のためではなく自分自身の利益のため、羊を飼っている者のことです。このような羊飼いは偽りの指導者なわけです。彼らは狼が来ると、羊を守らずに逃げ出します。雇われ羊飼いは、危険に直面したら、羊を捨てて逃げるのです。雇われ羊飼いは、羊のことを心にかけていないからです。そうすると狼は羊を襲い、羊たちは餌食になるのです。羊のために本当に自分の生命を棄てる覚悟を持つ者、これが真の羊飼いです。真の羊飼いはイエス様一人のほかにいません。イエス様は、人々に永遠の命を与えるために自らの命を捨てられたからです。

 イエス様は良い羊飼いです。良い羊飼いは羊との間に、互いに深い関係をつくります。イエス様は人々と愛と信頼の関係をつくります。さらに羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子とのゆるぎない関係にたとえます。そのゆるぎない関係は、羊飼いイエス様が羊のために命を捨てるということで保証されています。ここにイエス様の十字架が語られています。

 羊飼いイエス様は、自分に身近な囲いの羊だけでなく他の囲いの羊のことも心にかけておられ、その羊も導かなければならいと言います。ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人を救うことを目指しています。広く世界を展望しておられるのです。こうして、世界の羊は一人の羊飼いイエス様に導かれ、一つの群れになるのです。

 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」とは、イエス様が十字架の死の後に、復活することが表されています。だれも父なる神とかたく結ばれているイエス様の命を奪い取ることはできません。しかし、十字架の死は、神の御心に従う死ではありますが、同時にイエス様が自ら世の人々を愛し、救うために自ら選んだ死であり、御自分でその命を捨てるのです。イエス様は自分の意志で命を捨てることで、その復活の命を再び受けることも出来るのです。「父から受けた掟」とは、イエス様の十字架と復活が神の計画、神の意志から発している命令である、ということです。