イザヤ書52:1-10 

「救い主」の預言

2020年 11月 29日 主日礼拝

『「救い主」の預言』

聖書 イザヤ52:1-10 

 アドベント第一週です。今日から、イエス様の誕生を待ち望むことを象徴するアドベントキャンドル4本と、イエス様のキャンドルを置いています。このように4本のろうそくを順番に灯して、イエス様のお生まれになる事をお待ちするわけです。今日は預言者のろうそくに火をともしています。

イザヤ書52章にあります、「救い主」の預言からみ言葉を取り次ぎます。ユダの国にシオンという街がありました。シオンは、もともとエルサレムの国(エブス人の国)の街でしたがダビデ王の時に、ユダの国の首都になりました。このダビデの街はエルサレムと呼ばれました。そして、そのダビデの街エルサレムに隣接する丘にソロモンが神殿を立てましたので、エルサレムと神殿の丘の全体をシオンと呼びました。時代が進むと、エルサレムの街だけではなく、この周辺の広いイスラエル民族の住んだ地域をシオンと呼ぶようになったそうです。従いまして、今日の聖書の箇所は、時代的にはダビデ王よりはずっと後のバビロン捕囚の後に書かれたので、シオンをエルサレムとその周辺の地方のこと、エルサレムを城砦で囲まれた街として区別しています。

 シオンのたどった運命は、イスラエルの歴史そのものです。エジプトから脱出してきたヨシュヤによってこのシオンに住むようになって、後にはダビデが活躍して国として繁栄しましたが、その繁栄は何時までも続きません。イスラエルの北王国がアッシリア(サルゴン2世)によって滅ぼされると、ユダ王国も(アッシリアのセンナゲリブから)攻められて、ヒゼキヤ王の時に属国になりました。そのアッシリアがバビロンに滅ぼされると、ユダは独立できたのですが、(ヨシア王の時)エジプトに敗れ属国になりました。そしてバビロン(ネブカドネザル)が攻めてきてエルサレムの街を陥落させ、ユダはバビロンの属国になります。このときは、王こそ連れていかれませんでしたが、財宝とともに人々が連れ去られました。最初のバビロン捕囚です。そして、バビロン捕囚は、反乱のたびに続きます。それは、ヨヤキン王の反乱、ゼデキア王の反乱、最後は神殿陥落の3回、最初と合わせて4回に分けて捕囚が行われました。

 捕囚というのは、アッシリアが始めた占領地での支配政策です。戦争で勝つと、街ごと移住させることを指します。捕囚されてしまうと、人が住まなくなりますから、経済活動が完全になくなってしまいます。そうすると、人もお金もその地域にはありませんので、その地域が復興しません。ですから、反乱など再び敵対することが極めて困難になってしまいます。

 バビロン捕囚が、合計四回にわけて行われた結果、エルサレムは完全に廃墟になってしまいました。エルサレムの象徴であるソロモン王の造った神殿まで、徹底して壊されてしまいました。神殿は大丈夫だろうと高をくくっていたイスラエルの人々は、経済的にだけではなく、精神的支えまでを壊されてしまったのです。

二度と、ユダの人々が立ち上がれないように叩きのめされた結果は悲惨なものです。バビロンにも連れていかれず残されたものには、仕事も食べ物もない現実。異国バビロンの地に移住させられたものは、バビロンの国の建設に携わり、いつ帰れるか、帰ったとしてもそこには神殿も街もないという失望は、計り知れないものだと思います。イザヤ書は、この希望を無くしてしまった民に呼びかけます。

『52:1-6「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。52:2 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。52:3 主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは/銀によらずに買い戻される」と。

52:4 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。52:5 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。』

 書かれているのは、「奮い立て」とのシオンへの応援です。異教徒がエルサレムに攻めてくることはもう無いから、エルサレムよ、塵を払いなさい。・・・

イスラエルの風習では、異国に出て、自国にはいる前に異教的なケガレを落とすた めに靴の塵を払うという習慣を持っていました。そういう意味で、異教の国にとらわれていた状態から解き放たれて、「ケガレをはらいなさい」とユダヤの民は呼びかけられていたのです。

そして、預言は続きます。「自分の代償、つまりお金を払わなくても、シオンに帰ることができる。そして、今まで神様を侮っていた人々が、神様の力を知ることになる。」

これは、「シオンよ、あなたはもうすでに救われたのです。捕囚から解放され、失われたすべてのものが回復します。」との預言であります。

 かつてイスラエルがエジプトに下って行ってそこで寄留し、しいたげられたこと、そして、アッシリア人がイスラエルとユダを苦しめたこと。その記憶は、時がたってイザヤ書の時代にも共通することです。虐げる国がエジプトからアッシリアに、そしてバビロンに代わっただけです。かわるがわる他国から虐げられた結果、今は、遠く異国バビロンで故郷のシオンを思うことしかできない現実があります。イスラエルの歴史は、ずっと昔から同じように繰り返し苦しんだ歴史なのです。

 しかし、神様は、神様の民イスラエルを彼らに売り渡したわけでも、懲らしめたわけでもありません。確かに、イスラエルの民は預言者の声に聴かずに、神様以外の神々を礼拝したので、神様から心が離れました。そして、アッシリアとバビロンによって苦難を受ける結果となりました。

そのことで一番侮られていたのは「神様ご自身」です。神様も、イスラエルの民と一緒に痛んでいたのです。神様も、このことによって名が辱められているのです。


 ですから、預言者は言います。「神様は、イスラエルの民を救い出される。そしてその結果 神様の名がここに知られるようになる」 のです。すなわち、イスラエルがバビロン捕囚から救われるのは、神様の一方的な恵みによるものと預言したのです。神様を侮ったのは、異国の王たちだけではありません。そもそも、侮ったのはイスラエルの民です。にもかかわらず、神様はイスラエルの民を救おうとしているのです。神様がイスラエルを救う理由は、いったい何だったと言うのでしょうか? イスラエルの民は、異国の神を拝んで、神様を顧みなかった。そして、他国に滅ぼされ、異教の地で苦しめられた。それが、事実です。神様から見たら、イスラエルの民を助ける理由が無いのです。イスラエルの民が自身で、間違ったその道を選んだのですから。・・しかし、神様はイスラエルの民を救うことを決心されました。これは、一方的な決心であります。

 「いったい何のため、神様はイスラエルの民を救おうと思われた」のでしょうか? 私たちも救いに与っているという意味ではイスラエルの民と同じです。私たちは、特に、神様のために何かができた だから救われたのでしょうか? 残念ながら、私たちは大したことはできません。ですから、神様が私たちを救おうとするのは、私たちがどこか優れていたからとか、神様が得するからではない

と言ってよいと思います。私たちが救われたのは、ただ神様が私たちを愛してくださったからなのです。ただ神様がそうしたかったからなのです。

そこには、神様が「人々を救いたい」と言うご意志があるのです。そのご意志によって、私たちは救われたのです。

 ヨハネ「3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。3:17独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 神様はそのために神のひとり子であられたイエス・キリストを私たちに賜りました。それは、神様からの一方的なプレゼントだったのです。今日からアドベントです。クリスマスの季節がやってきます。私たちには、クリスマスにプレゼントをする習慣があります。そのクリスマスの最初のプレゼントは、神様が私たちに与えてくださった御子イエス・キリストだったのです。

 イザヤ書は、イスラエルがバビロンから救われるということを預言しました。しかもそれは彼らが何かをしたからではなく、何もしなくても、いや何もできなくても、神様が彼らを一方的に救ってくださいます。これが福音、良い知らせです。福音を伝える者が現れることについて、ここで預言され、歌われています。

イザヤ「52:7いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」と


「ふさわしい良い時に、福音を告げ知らせる救い主が現れる」という、預言だと言うこともできるでしょう。

この歌を、ヘンデルがオラトリオ 「メサイア」のアリアに使っています。

 それは、イスラエルの民が希望を無くすることが無いように、また国を始めから作り出す元気が必要な時に、神様がこの預言をイスラエルの民に下さったのです。そして、その預言はイスラエルの民に平和と平安を告げ知らせたのです。

その預言は、現代に生きる私たちは知っています。救い主は、イエス様であることを。イエス様は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げました。イエス様は、私たちの王としてエルサレムに来られたのです。

 そして、イエス様がエルサレムに入城されるとき、見張り人たちが声を張り上げます。そして集まった人々が、共に喜びます。イザヤ書の救い主の預言は、この様に続けられ、民に希望を与えたのです。

 そして、感謝なことは、主イエス様がこの民一人一人を慰め、この民一人一人の罪を贖ってくださるのです。これはエルサレムだけでなく、すべての国々に対しても、そして今この時でも同じです。神様は主イエス・キリストを下さった事によって私たちを罪から救い出し、贖ってくださいました。神様は、決して苦しんでいる人々を見捨ておられたわけではありません。今も働かれている神様は、多くの人が罪から救われることを望んでおられます。そして、その人その人の時に合わせて、救いに導いているのです。それは、どんなに私たちが罪を犯していたとしても、です。・・・神様は、一方的に私たちを愛しておられます。この神様の愛、そしてイエス様の恵みに与ること。私たちは、無条件に受け入れられていることに感謝してクリスマスを迎えてまいりましょう。