2025年 5月25日 主日礼拝
「すべての人が招かれています」
聖書 ルカ14:15-24
今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書からイエス様が教えた「神の国」のたとえです。このたとえは、安息日の食事にイエス様が招待された時のことでした。
ルカ『14:1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。』
安息日の食事とは、私たちの行っている主の晩餐式のような食事会です。当時は、礼拝後の主の晩餐で本格的に食事をしました。この記事では、会堂ではなく、ファリサイ派の議員の家での食事ですから、昼の主の晩餐式のあとに、別途招かれたのでしょう。その食事の間中、イエス様は多くのファリサイ派の人々に囲まれていました。ファリサイ派の人々(律法の専門家も、ほぼファリサイ派だといってよいでしょう。)ばかりの中で、イエス様は彼らの特徴に気づきます。
ルカ『14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。』
そして、このように教えます。
ルカ『14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
~14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。』
言い換えると、「上席を好む意味はない」そして、「招くべき人は、今ここに集まっている人ではい」と言うことです。ファリサイ派の人々は、社会的な地位が高く、また庶民より裕福でした。そしてその特徴は、律法を守ることを大事にすることです。しかし、律法を守ろうとする彼らには、重大な欠点がありました。
レビ『19:18 ~自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』 彼らは、この大事な律法を守っていません。隣人である、貧しい人々やハンディーのある人々をここに招いていないからです。
このイエス様の指摘に対して、ファリサイ派の一人が言います。
『14:15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」~』
イエス様は、ファリサイ派の人々ではなくて「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」と教えました。それに対して、そのファリサイ派の人は「今、この食事に招かれている人たちは、神の国に招かれるだろう」 と断言しました。つまり、イエス様に反論として、「神の国に入るのは、律法を守る人々です。だから、ここに招かれていない人は神の国に入れません」と主張します。彼らにとって隣人は、ファリサイ派の人々等の律法を守る人だけだったのです。
さて、「神の国の食事」とは、何のことでしょうか? その食事は、「メシアの宴会」と呼ばれ、メシアが開くと預言(イザヤ25:6-9)されていたものです。その宴会に招かれるのは、「今、この安息日の食事に招かれている人」だと言うのが、彼の言い分です。そして、この安息日の食事に招かれた人たちは、律法の専門家たちやファリサイ派の人々ばかりです(14:3)。そもそも彼らは、イエス様を罠にはめようと、議論の機会を狙っていました。イエス様は、そのことを理解した上で、たとえを使って話します。
「神の国の宴会」は、永遠のいのちを頂いた人たちが、メシアによる救いを喜ぶために開かれる祝宴です。ユダヤ人たちは、この「神の国の宴会」に加わることができる人を自分たちだけだと思い込んでいます。なぜなら、彼らは高ぶっていました。律法を守っていない一般人は難しくても、自分たちは徹底して律法を守っているから、メシアの宴会には必ず招かれる と・・・。
イエス様は、「盛大な宴会の譬え」の中で、多くの人が「神の国の宴会」に招かれていると教えます。盛大な宴会とは、福音書の原文では大晩餐(メガ デイプノン:μέγα δεῖπνον )とありますので、昼の食事会のことではなく、夜に行われる大宴会を指しています。安息日の礼拝に続くパン裂きの食事であれば、昼食ですが、宴会は夕方です。盛大な宴会なので、招待者の出席確約を取っておくのが普通ですね。さらに、準備が整って宴会の時刻が近づいた時、主人はしもべを送って、『もう用意ができましたから、おいでください』と、もう一度案内したわけです。ですから、招きを断る人がいることに、違和感を覚えます。いきなり招いたわけではないからです。この二度に渡る案内に対して、直前になってから断るとは、それ相応の理由と勇気が必要なはずです。しかし、『皆、次々に断った。』のです。ここに示された3人の、出席できない理由を見ると、「そもそも、宴会に行く気がない」ことがうかがわれます。そして、そうであれば、最初から断れば良かったはずです。
最初の人は畑を買った人です。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」。夜に畑を見に行くのでしょうか? 買う前だったら、契約のためにどうしても見たいのもわかりますが、買った後ならば言い訳にもなっていません。二番目の人は牛を買った人です。「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。」 夜中に、買った牛を調べる それは、最初の人と同じように、当日になって「いきたくない」だけで、取ってつけた言い訳です。そして、三番目の人は結婚した人です。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」。この三番目の人の言い訳が、この中では少しまともだと思います。 しかし、結婚式のために行けないのではなくて、すでに結婚した後のことです。妻に留守番をしてもらえばいいだけのことですから、断る正当な理由ではありません。この三人は、言い訳はみな違うものの、本質的なところで、断る理由は同じだと言えます。あの主人が招く宴会には出たくない、ということです。あの主人とは、イエス・キリストというメシアのことです。ファリサイ派の人々は、神の国の食事を主催するメシアが、目の前にいるイエス様だとは思ってもいないのです。ですから、ファリサイ派の人たちは、メシアの宴会に招かれることを望みながら、その宴会を断ってしまうのです。
私たちは、宴会への招きを断った三人について、他人事と思ってはなりません。私たちは、すでに持っているもの、このたとえでは、「畑」「牛」「妻との時間」、を優先してしまいます。もしくは、断る言い訳に使います。それらは、確かに大事でしょう。しかし、盛大な宴会に出る時間を惜しんでも、何も得られるものはありません。そして、永遠の命を祝う盛大な宴会に出ないということは、自ら救われることを拒むことになります。 彼ら3人は自分の大切な命よりも、気にかけている事をするための少しの時間を優先したのです。この3人は、宴会に出たところで、彼らの気にかけていることはどうなるわけでもないのです。それなのに、宴会を断りました。なぜでしょうか?・・・彼らは、その主人が開く宴会ではなく、メシアの人の招く宴会を待っているのです。 今この宴会に招いている主人が、メシア・・・なのにです。
だれでも、イエス様の招きに気が付かないならば、この3人と同じことをしてしまいます。イエス様が招いていることに気が付くためには、まず神の国を求めなければなりません。イエス・キリストは神の国の王であり主(あるじ)です。神の国を求めるならば、イエス様を信じ従って行く、その道を行くしかないのです。
さて、招きを断られた主人はどうしたでしょうか?
『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』と命令しました。
ここで招かれる人々は、イエス様が先ほど「招きなさい」と教えた人々です。彼らは、ファリサイ派の人々が安息日の食事に招かない人々でした。ファリサイ派の人々は神の国の招きを拒み、ファリサイ派の人々が虐げている人々が神の国に入る との宣言なわけです。さらに、続きがあります。
『14:22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』~』
「まだ席があります」。神の国の宴会には、多くの人を招くことができます。そして、主人であるイエス様は、もっともっと大勢の人を招こうとしています。
『14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』
ここに「無理にでも」と、一人でも多くの人を招きたいという主人の思いが表れています。そして、「この家をいっぱいにしてくれ」と言います。一人でも滅んでほしくない、すべての人が救われてほしい、みんな天の国に入ってほしいという、イエス様の恵みがここにあります。
『14:24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」』
この言葉は、律法の専門家たちとファリサイ派の人々に向けた言葉です。(なぜならば、この場に招かれたのは、イエス様と彼らだけ)この言葉は、大変に厳しいものです。お判りでしょう。「わたしの食事」とは、メシアの宴会、つまり神の国の食事のことです。ですから、「ここに集まっている律法の専門家たちとファリサイ派の人々は、神の国に招かれているのに拒否するので、一人も神の国に入ることがない」とイエス様が予告したわけです。イエス様の願いは、明確です。「わたしの家をいっぱいにしたい」のに、ファリサイ派の人々は拒んでいるのです。それでも、イエス様は人々を招き続けます。その招きを、喜んで受け入れる。そこに、天の国に入れるかが、かかっています。
私たちの主人であるイエス様は、神の国をいっぱいにしたいのです。そして、ファリサイ派の人々に虐げられている人も、ファリサイ派の人々自身も含め、すべての人々を神の国に招いています。そのことを全世界の人々に伝えてまいりましょう。