2024年 12月 15日 主日礼拝
『見よ、その日が来る』
聖書 マラキ書3:18-24
今日はアドベント第三週です。今週は、羊飼いの蝋燭をともしました。いよいよ来週は、ベツレヘムの蝋燭と、真ん中のイエス・キリストの蝋燭に灯がともり、クリスマス礼拝を守ることになります。
さて、マラキ書ですが、あまりなじみがないかもしれません。マラキって誰? と問われたら、答えられる人はあまりいないと思います。そもそも、マラキとは、人の名前ではありません。ヘブライ語で「私の使者」、「私の天使」という意味です。時代としてはバビロン捕囚から帰還した後で、エズラやネヘミアの活躍したころです。マラキは、祖国の復興が進まない中、イスラエルの民に神様の言葉を届けた預言者でありました。
アドヴェント第三主日は。カトリック教会ではガウデテ・サンデー(喜びの日曜日)とかローズ・サンデーと呼ばれているそうです。ガウデテ・サンデーは待降節三週目だけですが、ローズ・サンデーは、受難節第四聖日にもやってきます。ローズサンデーには、カトリックの司祭は「バラ色」の祭服(ローブ)を着るんだそうです。普段は、紫なんだそうですね。紫は、「悔改め」を意味するらしいですが、あまりプロテスタントではそのような話はありません。
さて、アドベントは悔改めの期間ですが、私たちの求めたいのは「神様にある喜び」です。私たちは悔改めの先にある、「喜び」を求めて、教会に集まるわけです。だからどんなに厳粛にイエス様の十字架を思い起こす「待降節」や「受難節」であっても、肝心の「喜び」を忘れることなく、良い知らせである「福音」を分かち合うのです。そして、羊飼いへのクリスマスの告知は、まさにその「喜び」を分かち合う時であります。
クリスマスの夜、羊飼いたちに、天使は突然現れて告げました。
ルカ『2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」』
これはクリスマスの定番ですね。今日の聖書には、「子牛」が出てきます。
マラキ『3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。』
当時の子牛の仕事は、籾殻を取り除くために麦を踏む事でした。その子牛には、口輪をつけずに踏ませる決まりです。まだ、指示に従って荷物を引くとか、農具を引く訓練ができない子牛たちを、麦の穂を敷いた上を飛び回らせるのです。そして、この子牛たちには口輪をつけませんから、いつでも自由に麦を食べられます。ですから、健康的に元気に育つわけです。また、義の太陽とは、救い主のことです。明けの明星であるバプテスマのヨハネのあとに、この地上に現れます。そして、この救い主が子牛を育むのです。これは、イエス様再臨の預言です。そして、もう一つの預言がありました。
マラキ『3:21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。』
こお箇所は、キリストによる裁きの時の預言です。イエス様の先駆けとしてバプテスマのヨハネが現れる時から、救い主の再臨の時、最後の日までの預言です。その関係から、この聖書箇所はアドヴェント(待降節)、あるいはレント(受難節)で良く読まれます。
さてマラキ書ですが、旧約聖書の中で、預言書の最後に置かれている書物です。預言者のマラキは、文書の置かれている位置からもわかるとおり、他の預言者から比べて、最も遅い時代、「バビロン捕囚」から帰還した時代に活動した預言者です。捕らわれて、すべてを奪われて異国バビロンに住むようになったユダの人々が、ようやく故郷に帰ることができました。しかし、神殿は再建したものの、まったく復興が進まない。このことを嘆いていた人々に、神様の言葉を語ったのが、預言者マラキであります。その時の人々が嘆いた様子が、マラキ書にあります。今日の聖書の直前の記事です。
マラキ『3:13 あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。3:14 あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。3:15 むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ。」』
当時の人々の本音なのでしょう。真面目に、誠実に生きても、何の希望があるかというのです。却って「高慢なものは幸い~罰を免れているから」とまで言いました。この世は要領がよくて、ずるい者の勝ちではないか?。だから「神様を信じて仕えることはむなしい」。これは実に深刻な嘆きであります。
神様に逆らう不敬虔な者たちが繁栄していることを嘆き、「神様に仕えることはむなしい」と神様に抗議する声を、神様は聞きました。そして、このように宣言したのです。
『3:18 そのとき、あなたたちはもう一度/正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との/区別を見るであろう。3:19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。』
ここでは、火が「わら」を焼き尽くすように、神様に逆らう人が「根も枝も残さない」ほど完全に焼き尽くされる と語っています。これは、神様に逆らう高慢な者に下される審きです。今現在の「神様に逆らう者」の繁栄だけを見るのではなく、彼らの根も枝も残さない最後を見なさいと。そして「神様に仕える者」の最後が、「区別」されると、マラキは預言しています。
主の日が来ると『彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。』つまり、裁きがあるわけです。すべてが燃え上がり、生き残ることができません。しかし、そこには例外があります。それは、イエス様を信じる者たちです。
『3:20 ~あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。』
ここに、救い主を喜びをもって待ち望む姿があります。主の日に、イエス様を信じる者は、義しいと認められ、そして裁きの炎に縛られることなく自由に、生きることが約束されているのです。
しかし、この記事は必ずしも明るい話題ではありません。なぜならば、この記事は「主の日」つまり神様の裁き、終末の時のことだからです。
『~高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。~彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。~彼らは足の下で灰になる~』
これは、明らかに裁きです。行われた悪を裁いた上で、罪に相当する罰を与えるとの預言です。その罰とは、生き残ることを許されすに灰になることです。罰として、灰にならなければならない。それだけの重い罪なのです。
旧約聖書では、「神様の裁き」を、金属を精錬する炉に喩えます。もし、金の純度を高めようとしたなら、強い火で炉の中の金を溶かします。そこに、高温の空気を吹き付けると不純物が燃えて灰になります。そして、その灰は、空気で吹き飛ばされます。こんな簡単な方法で純粋な金は残り、不純物は燃え尽きて吹き飛ばされるわけです。これは、まさに裁きを象徴しています。
このように、自分の人生が純金のように価値があったかで仕訳けられる時が、やって来ます。その時こそ「神様の裁き」なのです。私たちは正直なところ「神様の裁き」の前に不安を覚えます。そもそも私たちの貧しいこの人生に、胸を張って何ができたとも言えるのでしょうか?。この私の生涯に、果たして価値があるのだろうか? と不安がよぎるのです。
『3:21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。』
ここでは、神様に仕える者の勝利が語られています。この勝利は、「神様を畏れ敬う者」が、自らで勝ち取ったのではありません。神様が、神様を信じる者に与えてくださる、勝利なのです。
『3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。』
この記事には、直前の記事と直接的な結びつきはありません。(注解者は、編集者による付け加えであると見ています。)とは言いながら、マラキの預言が、この言葉で結ばれていることに、大きな意味があります。新しい契約を示す新約聖書への橋渡しをする、重要な言葉だからです。
「モーセの教え」とは、トーラー(モーセ五書)に記された記事です。「見よ、わたしは…預言者エリヤをあなたたちに遣わす」。その遣わされた者は、預言者エリヤのように、神様から直接召し出され、神様の言葉を語るのです。そして、「主の日」の到来の先触れとなって、その備えを呼びかけました。その遣わされた者は、バプテスマのヨハネとして現れた預言者エリヤだと言われています。キリスト教がユダヤ教の伝統に立ちつつ、それを越えてイエス・キリストへ橋渡しするバプテスマのヨハネの役割は、まさに主イエス・キリストを待つ、ということでした。父なる神様と人々の和解は、キリストの十字架においてのみ実現します。その和解は、神様によって計画された救いなのです。その救い主イエス・キリストの誕生を、そしてイエス様による救いに与る喜びを覚え クリスマスを迎えましょう。