1.人の言い伝え
『7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった』
イエス様の人気が高くなっているのを耳にして、彼らはガリラヤ地方に下って来たのだと思われます。 彼らはそこで、『7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。』 のです。そして、大騒ぎしたわけです。「汚れた手」とは、宗教的に清めが十分ではないという意味であって、手が汚れているわけではありません。マルコは、そのために解説(7:3-4)で、人が決めた戒めのようなものがたくさんあることを伝えています。当時のファリサイ派の人は、言い伝えを正確に守ろうとするあまり、「俗」とか「汚れ」の意味を細かく規定したり、「きよめ」の手順を決めて、民を指導していました。それが、ファリサイ派の人の権威だったのです。
ファリサイ派の人たちは聖書の教えを日常生活に生かそうとする信仰熱心な人々です。ですから、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」は、イエスの教えや弟子たちのそんな姿を軽蔑し、その行動を批判します。『「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」』。そこには、イエス様への敵意が込められていました。イエス様は彼らが最も大切にしている「昔の人たちの言い伝え」を否定しているように見えたからです。
2.神の戒めをないがしろに
『7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』』
ファリサイ派の人たちはもちろん、預言者イザヤの書を知っています。イエス様の言葉によると、ファリサイ派の人たちはイザヤをあざけった人々と同じだというのです。イザヤが指摘していたのは、彼らの心の内側のことでした。イエス様は、
『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。』と言いながら、一例として、モーセは、『父と母を敬え』、また『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』との掟を引用しました。その精神を全く忘れてしまって、「コルバン」と言えば、両親に何も上げなくてよい。とファリサイ派の人々は解釈している・・・そんなことをイエス様は指摘しました。年老いて生活の援助が必要な両親に対して、援助することを避けるために、「このお宝は献げ物ですから、差し上げられません」と・・・神様の戒めに背いて、そして神様を利用して自らの背きを正当化するとは、とんでもないことです。
3.人を汚すこと
『7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。』
ファリサイ派の人たちは、汚れから自分たちを分離することに心を配っていました。しかし、イエス様の言うことでは、けがれているのは人の方だというわけです。
『すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。』
『7:20~「人から出て来るものこそ、人を汚す。7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』
その悪い思いの結果として12の罪が記されています。「殺意」にしても「貪欲」にしても、まず心の内側に悪い思いがたまってしまったことの結果です。心が神様への愛と人への愛から離れて行った結果として、罪が犯されるのです。ところで、私たちは自分で自分のこころをきよくできるでしょうか。ファリサイ派の人は外側の汚れから身を守ることで内側を清くできると考えましたが、実際には、まったく逆のことでした。