ヤコブ2:8-13

 憐れみによって赦される

2023年 9月 17日 主日礼拝

憐れみによって赦される

聖書 ヤコブの手紙 2:8-13           

 今日の聖書の箇所は、ヤコブの手紙です。ヤコブの手紙のことをマルティン・ルターは「藁の書簡」と呼んで、新約聖書から排除しようと考えていました。ルターの神学と相いれないヤコブの手紙を燃やして消し去りたくて、「藁の書簡」と呼んだのかもしれません。パウロが掟ではなく「信仰によって義とされる」と異邦人に向けて教えたのに対し、ヤコブの手紙は、ユダヤ人のキリスト教徒に向けたメッセージでした。そして、書かれている内容は「行い」なのです。ところで、誰が書いたのでしょうか?聖書に出てくるヤコブは、主の兄弟ヤコブ、そして使徒の大ヤコブ(ゼベダイの子)と小ヤコブ(アルファイの子:マタイの兄弟)です。この3人はエルサレムの教会で活動しました。そのうちの大ヤコブは、早くからアグリッパ王の人気取りのために殉教していますので、この書の著者でないことは明らかです。そして、小ヤコブについては、ほとんど情報が残っていないことから、候補にはあがりません。ですから、ヤコブの手紙は主の兄弟ヤコブまたは、その名を借りた人が書いたというのが通説であります。どちらにしましても、パウロの説いた教えと一線を画しています。ですから、エルサレムのキリスト教会の教えが書かれたものであると言えそうです。そして、パウロが教えた「信仰によって義とされる」などの言葉は一切出てこないわけです。むしろ、立ち位置が異なることが、明らかです。

ヤコブ『2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。』

 「信仰によって義とされる」との教えを支持していたマルティンルターは、このヤコブの手紙が邪魔でしょうがなかったと思われます。ただ言い換えてみると、「信仰に行いが伴わなければ、義しい人とは言えない」となります。この指摘は、客観的な事実です。また、パウロの説いた「信仰によって義とされる」は、彼自身が神様に導かれたときの証であります。この二つの異なる教えですが、対立するのではなく、両立するのだと思います。なぜならば、パウロは「救い」に中心をおいて教えているのに対し、ヤコブは救われた後に「福音」に与る生活を教えているからです。

 今日の聖書の箇所では、「分け隔て」の問題が取り上げられています。このヤコブの手紙は、迫害によって散らされたユダヤ人クリスチャンたちに向けて書かれたものです。彼らは、お金持ちを大事にする一方で、貧しい人たちを軽く扱うと、ヤコブは指摘します。

具体的には、このような記事があります。

ヤコブ『2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。』

 神様を礼拝するために入ってきた二人の人が、一方は、金持ちそうであるので良い席に案内し、もう一方はみすぼらしいので、そこらへんで立っておけと、全く違う対応をします。明らかな差別、分け隔てです。なぜこんな振る舞いをしていたのでしょうか。もちろん、エルサレムを追い出されたキリスト教徒が、異国の地で暮らしていたのですから、経済的にも社会的にも厳しい状態でありました。そんな中での教会の運営を考えてください。まず、礼拝を誰の家でやるか?当然、広い家を持った人にお願いするわけです。 伝道者の生活をどうやって支えるか? 現実に献金は多いほど良いわけです。自然と、お金持ちに目を留め、彼らの支援を得るために関わりを大事にします。その一方で、そうでない人たちを軽んじ、同じ礼拝を守りに来た人々として平等に扱わなかったわけです。とは言え、教会も生き永らえなければなりませんから、むやみに否定することはできません。そこでヤコブは、その行いが、隣人を愛しての行動なら善いことだと 指摘します。 

 ヤコブは『2:8隣人を自分のように愛しなさい」という律法(レビ19:18)を引用しました。これは、イエス様が教えた最も重要な掟の一つでもあります。

マタイ『22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』


 このようにイエス様は、2つの掟を教えました。私たちクリスチャンが大事にすべきキリストの戒めであります。イエス様の王国に住むためには、この王国の戒めを守るべきなのです。 

 さて、この『隣人を自分のように愛しなさい。』という御言葉を聞いて、私たちは受け止められるでしょうか。イエス様は律法のことを『あなたの神である主を愛しなさい。』とともに、この『隣人を自分のように愛しなさい。』この2つに律法の全てが基づいていると教えました。しかし、頭では理解しても、これほど私たちにとって難しい事はないでしょう。これを読む度に、私たちが無力であることを深く自覚させられます。私たちの自分自身への愛は特別です。何があっても自分だけはかわいい。そして、自分だけは例外にしたくなります。それなのに、「自分と同じように周りの人々を愛しなさい」。・・・とても厳しい命令です。できれば聞きたくありません。そんな自分が無力であることを知らせる言葉よりも、もっと希望のある言葉を聞きたいと思ってしまいます。しかし、私たち、イエス様を信じる者にとっては、無視し得ない言葉であります。イエス様は、この戒めの大切さを教えただけではなく、ご自身がその戒め通りに歩みました。イエス様は、ご自身を愛するように、私たちを愛してくださっています。

 本来、神様であるイエス様は、私たち罪人を裁く立場です。しかし、イエス様は、私たち罪人を愛しているので、見捨てることはありません。罪ばかり 犯している私たちを心に留めるイエス様は、この地上に降りました。私たちをご自身のように愛しているがゆえにです。そして人々を教え、憐れみを施したのです。そして、ついにはご自身の尊い命さえも投げ出して、私たちを救いへと導いてくださいました。そのことを知る私たちは、「イエス様の愛に感謝し、イエス様に倣いたいと祈る」それしかないのです。私たちは、イエス様のように隣人を愛することはできません。それを承知の上で、イエス様は、隣人を愛するようにと戒めているのです。

 さて、このイエス様の戒めに照らしたら、分け隔ては「律法違反」です。

 「律法に違反した者は律法によって違反者として責められる」とヤコブは言います。この「違反者(παραβάτης)」と言う言葉には、神様の意志に対して意図的に違反する者と言ったニュアンスがあります。つまり、過失までを責めるのではなくて、故意に神様に逆らっているならば、厳しく責められるべきだとヤコブは言っているのです。

『2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。』 (有罪となる~ἔνοχος:責任を負う)

 この、「一つの点でおちどがあるなら、すべての点で有罪」とのことばは、厳しいですね。一つの戒めを守らないで、違反者となったならば、他の全ての戒めを守っていたとしても、違反者として責任を負わなければなりません。なぜならば、神様に逆らったからです。

 ヤコブは、分け隔てをする人についても、同じように律法の違反者として責任を負わなければならないと教えました。分け隔ては、この世的には小さい罪であったとしても、イエス様の第二の掟に従っていないからです。確かに分け隔ては、現代の法律では人を殺すよりも罪は小さく、罰は「おしかり」程度でしょう。しかし一方で、それが「一人の人間に対する存在の否定」と受け取るなら、悪口や軽蔑や侮辱よりもひどい罪であります。それは、人格を殺しているのです。だから、殺人に相当する罪だと思いますが、現代の法律ではそのように裁かれることはないでしょう。しかし、ヤコブは言います。『隣人を自分のように愛しなさい』この戒めを一度でも守らない人は、違反者として責任を負わなければならないのです。


 ヤコブは続けます。

『2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。』

「自由をもたらす律法」この言葉は、ヤコブの手紙にだけ2回出てきます。そしてその意味するところは、イエス様の2つの掟に凝縮されています。そう言う意味で、旧約聖書と新約聖書を通して語られるイエス様の福音の事をヤコブは「自由をもたらす律法」と呼んだのであります。文字通り、福音は私たちに自由をもたらすのです。ここで使われている自由は、奴隷からの解放による自由の事であって、何でも好き方題にするという意味の自由ではありません。自由と言っても、『隣人を自分のように愛しなさい』との束縛はあるのです。そのイエス様の掟による束縛は、私たちを罪から解放します。だから、イエス様の掟の束縛から離れてはいけません。自由になろうとして、かえって罪に捕らわれてしまうからです。本当の自由は、イエス様の掟のもとにあるのです。そして、イエス様の掟によって裁かれる時が来ます。だから、裁かれないように『隣人を自分のように愛しなさい』を実践していきたいのです。また、イエス様の掟を破ってしまったら、その裁きの時までその罪を悔い、イエス様に赦していただくよう祈りたいのです。

『2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。』

 ヤコブは、このように言いました。あなたが憐れみ深いなら、神様はあなたを裁くときに憐れみを下さるでしょう・・・と。

 詩篇に『112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。』とあります。旧約の時代から、「憐れみをかける人は、裁きの時に憐れみを受ける」ことを教えられているのです。

そして、詩篇のダビデの歌です。

『143:2 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。』

だれひとりとして、正しいと認められる人はいない。この現実があります。イエス様の掟を完璧に守ろうとしても、やはり「隣人より自分を愛す」からです。ですから、ヤコブは裁きの時にイエス様の憐れみを受けるためにどうすればよいかを教えます。人に憐れみをかける人は、イエス様の憐れみを受けます。憐れみは、神様の性質でありますから、人に憐れみをかける人は神様と共にそこに住んでいるのです。そして、人に憐れみをかけない人は、裁きの時に憐れみはかけられません。神様と共に住んでいないからです。こうして、私たちの罪が裁かれても、神様の憐れみを頂くことができます。つまり、私たちは神様の憐れみによって赦されるのです。ですから、私たちもイエス様の行った様に憐れみをかける人になりたいですね。ただこれは、かなり難しくて、出来そうもありません。そんな時は、赦してくださいとイエス様に祈りましょう。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」とのイエス様の掟を守れるように祈ってまいりましょう。