コリントの信徒への手紙一8:7-13

弱い人々のための自由


1.肉はどこから?

 『8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。』

 当時、肉はどこで手に入れたでしょうか? 自分の家の家畜であれば、自分らで屠ったでしょう。また、大家族であれば、一頭を丸ごと購入して自分らで屠ったと思われます。そして、家の宗教に従って、それぞれの神に捧げ、そしてその供え物を調理したと言えます。問題は、その神々に供えた肉が自分らで処理しきれない場合です。誰かに譲るか、売る事となるでしょう。そして、もっぱら食肉解体をしている職業がありました。それは、神々に仕える祭司たちです。かれらは、毎日大量のいけにえを捧げます。そして、自分らで食べきれるわけがありません。ですから、神々に備えた肉を売るわけです。そうしますと、神殿のある町には、その神殿に備えられた肉が売買されるわけです。つまり、どこかの家で食事に与るときに、その家の神に捧げた肉が出てくるだけではなく、家でも日常的に神々に捧げた肉を食べることになります。そうしますと、同じ宗教の神殿や家庭で捌いた肉以外は、全て異教の神々に捧げた肉であると言えます。

 偶像礼拝を守ってきてキリスト教に改宗した人たちにとって、そのことは重大な事実でした。口にする肉は、自ら管理しない限り偶像に備えられた肉を食べることになると知っていたからです。コリントには教会はあっても、犠牲を献げるキリスト教の神殿はありません。肉食をやめない限りほぼ毎日、偶像に備えられた肉を食べることになってしまいます。決して偶像に備えた肉を食べたからと言って、何が起こるわけでもないのですが、信仰を疑われるのが怖いならば、そんなことに心が捕らわれてしまいます。結果として、偶像に備えた肉を食べたがために心が咎められ、心が汚されるのです。

2.弱い人を罪に誘わないように

 『8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。』 

食べ物について、パウロは偶像に備えた肉を食べた、食べないで、何も信仰には影響がないと主張します。たとえ、偶像に備えた肉を食べなかったとしても、健康を損なうものでもありませんし、神様に捧げた肉を食べたからと言って、特に栄養を多く得られるわけでもありません。食べ物を単なる体の健康を支えるための物質と考えると、偶像に備えた肉とそうではない肉に何の差もないのです。だから、信仰さえしっかり持っていれば、偶像に備えた肉を食べようが、食べまいが、なんら迷うことはありません。偶像に備えた肉には、信仰に対して無力なのです。しかし、信仰の弱い人にそれを見せては、影響が出ます。まず、批判的な見方をすれば、神様を信じていながら神様を裏切り、偶像の食卓に招かれ、そして喜んで食している。と言った風に言われるでしょう。また、偶像に備えた肉を食べることに慣れるにつれ、神様から遠ざかって行っているように見えるでしょう。一方で、信仰の弱い者は、「偶像に備えた肉を食べてはいけない」と戒められていたとの認識だったと思われます。「食べても問題ない」との、信仰の先輩の態度に困惑するでしょう。それだけではありません。その改宗者たちが、また偶像礼拝に戻るきっかけとなるかもしれません。偶像に備えた肉を食べても、何の変化はないものの、これまで偶像礼拝をしてきた改宗者たちにとっては、「先達たちが、平気で偶像に備えていた肉を食べるのならば、偶像礼拝を容認している」ように見えるはずです。神様が禁じているのは、偶像に備えた肉を食べることではなく、偶像礼拝です。しかし、その違いを説明することも大事かもしれませんが、それよりも、誤解を招くような行動を控え、信仰が育っていくまでに混乱を与えない方が、良い判断であると言えます。

『8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。』

 確かに、信仰の強い人は、偶像に備えた肉を食べても、何の影響もないことを知っています。だから何の影響もありません。しかし、信仰の弱い者は、そこまでの知識もないので、「自分は食べて問題が無い」とか「食べている人を見て、不信仰だ」と思うでしょう。それは、結局あなたがその知識をひけらかしたが為の害でしかありません。その知識は、自分自身の中に納めていればよいのに、ひけらかすが為に信仰の弱い者への迷いを引き起こしてしまうのは、良くないです。その、すぐに迷ってしまう弱い信仰を持った者に価値は無いとでも思うのでしょうか?その信仰の弱い者を救うために、イエス様は十字架にかかって死んでくださったことを忘れてはなりません。

3.罪とは

『8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。』

 信仰の弱い者を混乱させ、そして躓かせるような言動は、その兄弟たちに対する罪であります。自分自身の中で影響が完結する正しい言動であったとしても、それは兄弟たちにとって悪となることや偶像に立ち帰らせるきっかけとなるならば、罪なのです。そして、兄弟たちに対する罪は、キリストに対する罪であります。なぜならば、その兄弟たちを救うために、キリストは十字架で犠牲になったからです。キリストの犠牲を無にする言動は、キリストへの罪と言ってよいでしょう。 では、どうするか? キリストへの罪を犯さない。それは、兄弟たちに対して罪を犯さない事です。ですから、正しい言動であるかどうかの判断は、自分自身の基準で読み取るのではなく、兄弟たちにとって正しいと理解できるかどうか?また、兄弟たちに正しい結果を導くかどうか?に重点を置かなければなりません。

 だから、パウロは偶像に備えた肉だけではなく、偶像に備えた肉を食べたと疑われることを避けて、「肉そのものを食べない」ことを誓いました。