ヤコブ1:12-18

 命の冠

2024年 2月 18日 主日礼拝

命の冠

聖書 ヤコブの手紙 1:12-18           

 今日の聖書は、ヤコブの手紙です。この手紙は、主の兄弟ヤコブが試練の中にいる離散したクリスチャンたちを励ますために書きました。また、問題のあるクリスチャンもいたようです。「信仰があれば行いは伴わなくても良い」と考えたり、欲望に負けて、この世的な生き方をしているクリスチャンを戒めるために書いたとも言われています。この手紙を書いたのはヤコブまたは、ヤコブの名前を借りたヤコブの弟子と言う所でしょう。

 ところで、イエス様の時代のヤコブと言えば、使徒の二人がいます。ゼベダイの子ヤコブとアルファイの子ヤコブがそれぞれ大ヤコブ、小ヤコブと呼ばれていました。もう一人が、主の兄弟ヤコブです。イエス様には4人の弟と2人の妹がいました。ヤコブは、次男にあたるわけです。(プロテスタント教会の理解を書きました。)この主の兄弟ヤコブは、歴史上の記録に残る人物です。紀元62年大祭司アナノスによって、石打の刑が行われたことがわかっています。その根拠資料は、当時の歴史学者であるフラウディオ・ヨセフスのユダヤ古代史であります。この人は、祭司の家に生まれ、24組ある週の番のうちの第一の組(750人/組)に属していました。つまり大祭司が出るような特別な組に属していたわけです。そういうこともあって、大祭司が主の兄弟ヤコブを殺したとのヨセフスの記事は、信ぴょう性が高いと言えます。一方で、大ヤコブと小ヤコブについては、聖書以外に書きものが残っていません。結論として、誰が書いたかと言う根拠がないなか、ヤコブの手紙は、主の兄弟ヤコブが書いたということが3、4世紀ぐらいに言われ始めていたようです。

 この著者と言われる主の兄弟ヤコブは、エルサレムの教会の最高指導者と言う立場であり、ユダヤ教の人々からも尊敬を集めていたようです。そういう意味で、ステファノやギリシャ語を話すユダヤ人がエルサレムを追われ、迫害を受けたのとは正反対でした。この時代には、ユダヤ人は、ローマの国中にいました。それが、クラウディウス帝の命令(使徒18:2)でユダに帰っていました。彼らは故郷で、イエス様の福音に触れ、信仰を持ったのです。そして、サウロ(後のパウロ)の迫害で、エルサレム周辺から再び、ローマ中に散っていたわけです。ヤコブは手紙の冒頭をこのように書きました。

ヤコブ『1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。』

 パウロとかバルナバ、ペトロ、マルコ、ヨハネ、トマス等が、異国の伝道にあたっていたわけですが、彼らが伝道している異国の地にいるクリスチャンにヤコブは手紙を送り届けたのです。その教えの特徴的な部分は、「行いによって義とされること」です。このヤコブの教えは、一見するとパウロが教える「信仰によって義とされること」の反対の立場のように見えます。もともと、パウロが特に強調していた教えが、イエス様への信仰による「救い」でありました。そして、「イエス様の福音の中で生きる」ことも教えていたのが事実であります。パウロの教えも、今日のヤコブの教えも、そういう意味でつながっているのです。


 さて、今日のみことばを見てまいりましょう。

誰でも試練に遭うことを喜びません。私たちも、主の祈りで毎週このように祈っています。「われらを試みに会わせず、悪より救い出し給え」とですね。ところが、ヤコブは、「神様から受ける試練を喜びとしなさい」と言っています。なぜでしょうか。

そこのところを、パウロの言葉を借りて説明したいと思います。

ローマ『5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』

 ヤコブの書いた試練は、ペイラスモス(πειρασμός:テスト、勧誘、懲戒、または挑発によって証明すること)であります。ですから、「神様があなたを試すことを喜びとしなさい」とのニュアンスがあります。一方で、ローマ書の苦難はスリプシス( θλῖψις: 苦悩、迫害、艱難、トラブル)であります。パウロは、背後にある神様の愛を前提として、苦難は神様に鍛えられることだとして、そこに希望を見いだしています。

 そして、苦難によって私たちに忍耐が備わり、成長するということをパウロは教えます。忍耐力が与えられれば、我慢することができ、希望をもって堪え忍び、苦難に勝利することができるのです。1世紀のクリスチャンには、この忍耐が与えられました。これは、神様の愛による導きでありました。神様の導きによって、迫害を受けながらも、耐え抜き、そして希望を持ち続けて、信仰の上に勝利を得たのです。

 わたしはこのヤコブが言う試練について、「鉄は熱いうちに叩け」との諺を思い出します。昔は、たたらで鉄を作りました。たたらで溶かした鉄には、燃料に使った炭の炭素が大量に入っています。鉄と炭素が接触すると、溶ける温度が低くなる性質を利用して、低い温度で鉄を溶かしているからです。炭素が多いままだと割れやすい鉄になります。ですから、炭素を減らす作業をして、鋼を作るわけです。その方法は、現代では、溶けた鉄に酸素を送り込んで、鉄の中の炭素を燃やします。しかし、明治になるまでは、真っ赤に焼けている状態で「熱いうちに叩く」のです。鍛治屋さんの鉄をたたくと言う作業は、形を整えるだけではなく、炭素を追い出す作業でもあるわけです。こうして、燃やされ、そして叩かれて、便利な鋼が造られます。もし、この叩かれると言う試練を経なかったならば、もろくて、加工している最中や、使用中に割れてしまうのです。叩くことによって鉄が強くなるように、試練は時によって必須なのであります。

 そして、試練を前向きに考えなければなりません。「ためされている」「しごかれている」と言うような受け身で考えるのでははなくて、「何のために神様は試練を与えるのか?」「何のために私たちは耐えるのか?」を考えてみたいです。それは、ヤコブの言う命の冠を受けるためであります。もちろん、命の冠とはこの世の命のことを言っているのではありません。天の国での命。これが与えられると信じて、私たちはバプテスマを受けました。私たちは、神様の裁きのとき、永遠の命を頂くものと信じています。地獄の苦しみを永遠に味わわないようにです。永遠の命を受けるために、ヤコブは、「行いによって義とされなければならない」と教えます。だから、試練は必要です。試練によって人は変えられ、謙遜に御言葉をうけとり、そしてイエス様のように生きる強い信仰が与えられるからです。

 ここで、心配なのは、「信仰によって救われた」ことと どう整合が取れるかです。先ほど、パウロと真反対の教えのようで、実はつながっていると申し上げました。パウロは、この課題をこのように整理して教えています。

Ⅰコリ『3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。』

 この土台とは、救い主であるイエス・キリストの事であります。

パウロは、行いによって、その土台の上に仕事が残れば、報いを受けると言いました。その論点は、ヤコブと同じだと思います。行いが良い仕事となる事を願っての「お勧め」なわけです。そして、パウロは大事なことを補足しています。それは、行いが良い仕事にならず燃え尽きた家を建てた人の事です。つまり、イエス様を信じますと信仰告白をしたものの、結果として「行いで義とされなかった人」についてです。その行いは裁かれます。パウロも言っているのであります。しかし、それでもイエス様への信仰を表し、証した者は「火の中を」くぐりぬけてきた者のように、救われます。これは、怖い目に合うと言う意味でしょうか?裁きに望むときに、大変怖いと言うことでしょうか?どちらにしても、それは一時的であると言うことです。そして、声を大きくして言いたいことは、たぶん私たちのほとんどは、「火の中をくぐり抜けてきた者のように」、救われるのです。・・・ほっとしますね。だからと言って安心しきって神様の与える試練を不要なものととらえてはいけません。神様は、私たちが本質的に良くなることを願って、導いているからです。同じ理由で神様は、私たちを誘惑することはありません。ですから、誘惑は神様からの試練ではなく、人から出るものであります。それは、自分自身の欲望であります。欲望は罪を、罪は死を生みます。欲望は、神様の導く永遠の命への道とは違うからです。良いものは、人から来るのではありません。すべての良いものは、天の国の神様から来るのです。


『1:18 御父(おんちち)は、御心(みこころ)のままに、真理(しんり)の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。』

 ここで、「初穂」ですが、使われている元の言葉の意味は、犠牲であります。これから、犠牲になるだろうとのヤコブ自身やこの群れの人々の覚悟が伺われます。キリスト教への迫害と言う試練がこの群れにある中、ヤコブは試練に耐え、そして、神様の導きに従って歩むようにと教えました。そして、究極には「迫害の犠牲になる」ことを、神様のみ旨として受け入れていたのだと思います。ヤコブは、この世に生まれ、そして犠牲となることを、神様が計画したキリスト教の伝道のためだと理解したのだと思われます。つまりは、すべてを神様に預け、神様に働いてもらう。そして、多くの人々がイエス様を信じて永遠の命を頂くようになる。そこに喜びがあるわけです。

 私たちが求めるものは、この世のものではありません。この世のものを求めるのであれば、それは欲であり、また欲は罪を生みます。天の国での永遠の命を頂くためには、イエス・キリストが自らの行動で教えて下さっている正しい信仰・判断力・実行力を頂くほかにありません。私たちには、そのような力が足りないからです。だから、神様は祈って求める者にその力を与えます。ヤコブの教えた「行いによって義とされること」は、普通の人にできるような事ではありません。しかし、祈ることは出来ます。そして、その祈りによって神様が耐えがたきことをまるごと引き受けてくださいます。その恵みに感謝してまいりましょう。