ヨハネ12:27-36A

光あるうちに

 

1.心騒ぐ

 イエス様は十字架の時を前にして心を騒がせます。生身の人間の体を持つイエス様にとって、十字架刑は過酷なものだからです。神の子でありながら、人間としてこの地上に降ったイエス様でも、肉体がある以上、極限の苦しみを伴います。受け入れられるものではありませんでした。

『『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」』

救いを求めたくなるほどの過酷な十字架ですが、まさにその苦しみを受けるためにイエス様は来ました。罪のない方が十字架にかかることを受け入れたのは、イエス様だからこそです。それにしても、その心騒ぐ姿に私たちは畏れと慰めを感じます。

 イエス様の父なる神への従順さは、私たちにはとうてい真似ができません。私たちは、いつも迷いなく神様に従えるわけではないからです。イエス様でさえ、神様のご計画の前に心騒がせているのは私たちの信仰の弱さとは次元の異なることです。しかし、神様は、この時のイエス様のように戸惑いながら神様に従おうとする私たちたちの歩みをも、見守ってくださるのです。私たちの心や信仰の弱さもよくよくご存知の神様は、なおそんな弱い私たちも招いてくださるのです。

2.天の声

 すると、天からの声がありました。

『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』

父なる神はイエス様の受肉において、そしてまたイエス様の奇跡によって栄光を現しました。そしてまた再び栄光を現すと予告します。その栄光とは、イエス様の十字架にほかなりません。

 この天の声は、そばにいた群衆にははっきりとは聞こえなかったようです。雷が鳴ったという者もおり、また、天使がこの人に語りかけたのだという人もいたとあります。その時にはその意味を理解する人はいなかったのです。

3.人の子は上げられる

 「人の子が上げられる」とは、救い主が十字架にかかる、ということです。この時誰もわかりませんでした。ですから人々は、このように問います。

『わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。』

 群衆の間に混乱が生じました。当時の人は、「メシアはこられると、永遠に共にいてくださる」と考えていました。ですから「上げられる」ということは到底メシアにはふさわしくありません。しかし、その事はイザヤ書に書いてあるのです。

 旧約聖書には、神様が人間の心をかたくなにされたということが時々書かれています。神様がかたくなにされ、人間が心を開かないようにされたのだから人間が理解できなくても当然のように思えます。神様が人間の心をかたくなにされ、メシアのこともイエス様の十字架のことも理解できないようにしていたということでしょう。

 しかし、そのようなかたくなな者のためにイエス様は十字架にかかられました。イエス様は、多くの実りを結ぶために死ぬと教えました。今日の聖書箇所でもこう言っています。

『12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』

 

4.光あるうちに

『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』

 ヨハネによる福音書は、1章からキリストのことを光として描かれています。救い主は罪の闇に沈む人間を照らす光です。救い主であるイエス・キリストは永遠の存在です。アルファでありオメガ、永遠におられるお方です。ここで、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と言っています。つまり、今すぐにこの光が落ちて暗闇の世界になるわけではないということです。そして、しばらくすると光が落ちる。それは、イエス様の十字架の死を示します。暗闇の世界となるのですが、イエス様は再び来られるときにイエス様(光)は永遠にいて下さるのです。

 私たちがイエス様(光)を信じるということにおいて残されているのは、「いましばらく」の期間です。この限られた肉体の寿命があるからです。この世にいる間にイエス様を信じたいし、すでに信じていても、その信仰を深めたいですね。すでに信仰を持っている人にとっても、光は「いましばらく」の期間なのです。罪の暗闇は、しばらくするとやってきます。暗闇に追いつかれてしまうのです。ですから光であり神様であるキリストと歩む必要があるのです。その光を心の中にしっかり灯していくことで、迷うことも、躓くことも避けられるからです。光であるイエス様が建てられている教会に繋がって歩むとき、私たちは闇に追いつかれません。教会はキリストが復活ののち天に昇られ、そして再び来られるときまでの間、私たちが憩い、そして祈るところであります。