マルコ9:2-17

十字架を担ったままのキリスト

2023年 3月 19日 主日礼拝

受持化を担ったままのキリスト

聖書 マルコによる福音書 9:2-17           

  受難節第四週となりました。再来週が受難週となります。先週のお話は、ペトロによる「イエス様ご自身がメシア、救い主である」との宣言と「イエス様の死と復活の予告」の場面からでした。そして今日の箇所が続きます。マルコによる福音書は、この8、9章から、イエス様の受難に向かいます。今日の箇所「キリストの変容」と呼ばれるこの物語も、イエス様の十字架への道をたどる途中で、十字架後を語るものであります。

  今日の箇所には雲の中からの声が登場します。神様の声です。神様の声は「イエス様がヨハネのバプテスマを受けた時」(マルコ1:11)と、今日の箇所の2か所にしか出てきません。それだけ今日の聖書は重要な場面なのです。

(マタイ、ルカも同じ、例外:ヨハネによる福音書12:28)

 

 ですからこの場面を、「イエス様が神々しい姿に変わった、偉大な預言者のモーセとエリヤまで出てくる奇跡物語」とペトロのように単純にとらえてはいけません。十字架と復活の意味を示した箇所であり、神様が自らイエス様の話を聞くようにと私たちに命令した、特別な箇所なのです。

このとき、イエス様はペトロとヤコブ、そしてヨハネだけを連れて高い山に登りました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていく、という場面が、福音書にあります。たとえば会堂長ヤイロの娘が生き返る場面であり、ゲッセマネでの祈りの場面であります。いずれも祈るしかない場面であります。イエス様のまわりには、人々の輪がありました。男性の弟子たちの中で、一番イエス様に近いのはこのペトロ、ヤコブ、ヨハネでした。その外側には12弟子のうちの9人、さらにその外側に、イエス様に従っていた他の弟子たちの輪です。そしてさらにその外側に、群衆がいてイエス様の言葉を聞く人々がいました。そのなかで、一番イエス様に近い3人には、「神の国の秘密」を明かそうと、どんな場面にも立ち合わせたと思われます。

 

 今日の聖書においても、ペトロとヤコブ、ヨハネには特別な扱いになっていたことが、わかります。イエス様は9節で

『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない』と言います。

 これは、話すことを禁止したのではなく、時が来たら話しなさいという趣旨です。まず12弟子たちの残りの者に、そしてほかの弟子たちに、そして群衆にと、復活の出来事が伝わるように、段階を踏んで広めなさいとのイエス様の命令だと言えます。静かな池の水面に小石を落とした時に、波紋が一重二重と広がっていくように、やがて大きな輪となって世界中に告げ知らせるためにです。

 

 さて、その3人の弟子だけを連れて、イエス様は高い山に登りました。一般的に言って、古来から神様は天に居るということで、山や雲に神様が現れるとされています。例えば、今日の記事に出てくるモーセは、シナイ山で神様から十戒を頂きました。そしてまたエリヤも、王妃イザベルから命を狙われて、身も心も疲れ果てたときに、神様に導かれたのがホレブ山でした。同じ様に、イエス様ご自身も、高い山に登って神様に祈りました。

 

 神様が現れるところでは、神秘的な事がおこります。今日の場面では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、イエス様の姿が変わるのを目の当たりにします。3節を見ますと、

『イエス様の服が真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。』とあります。

 「真っ白に輝く」光景は、神様の力を示しています。例えば、モーセがシナイ山で十戒を神様から授かった時、彼の顔の肌は光を放っていました。(出34:30)モーセの姿に、神様の栄光が現れたのです。同じように、この場面のイエス様は、「神の御子」として 姿を現わしたのだと言えます。人の子でありながら、神の子でもあるその本来のイエス様の栄光を現わしたのです。

 

 その場面にモーセとエリヤが加わります。ここでのモーセは、律法を象徴しています。律法はモーセが書いたとされているからです。また、エリヤは預言を象徴しています。エリヤは、アハブ王の罪(バアル、アシュタロテ信仰)を咎め、神様の裁きとして、旱魃と飢饉があることを王様に預言しました。そんなエリヤは、旧約を代表する最強の預言者であります。旧約聖書は、律法と預言者(預言の書の事を預言者と呼びます)諸書から構成されますから、モーセとエリヤで旧約聖書全体をほぼ象徴していることになります。この律法に基づいて、イエス様は教えましたし、預言者は救い主のイエス様が生まれることを預言しています。旧約聖書には、イエスという名前は出てきませんが、その代わり、やがて来るべき救い主の預言があります。ですから、救い主がイエス様であれば、イエス様の降誕、十字架の出来事、そして復活によって、旧約聖書の預言が成就したことになります。

 

 神様のご計画の中で、預言された救い主イエス様は、この世に降りました。そして十字架の出来事で死んだイエス様が復活する事によって、私たちの罪が贖われ、永遠の命を頂くことが出来るのです。そしてその計画は、十字架と復活そして再臨までつながります。直接的には、イエス様を「十字架につけろ!」と叫ぶユダヤ人たちによるローマ総督ピラトの判断で、イエス様は十字架にかけられてしまいました。その時にイエス様を十字架につけるように扇動したのは、ユダヤ人の祭司長たちです。ユダヤの人々は「イエスを十字架につけろ」と叫びました。そこには、ユダヤ人の罪が象徴されます。しかしイエス様は、ユダヤ人だけでなく人間全体の罪をもその十字架で負ってくださいました。この世の救い主であるキリストとは、イエス様の事だからです。キリストの十字架はすべての人間の罪の贖いのためでしたし、いまも未来もすべての人間の罪の贖いのためです。そして、その十字架は人間の思いも及ばない、神様のご計画でなされているのです。モーセとエリヤに象徴される旧約聖書には、イエス様が十字架に至る神様のご計画が示されています。そして、イエス様によって成就したのです。

 今日の聖書では、モーセとエリヤが登場します。また、7節には雲の中からの声が記されています。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』これは、律法や預言に聞く旧約の時代から、新しい時代「イエス様に聞き従っていく新しい時代」になることを神様が示されたのです。モーセもエリヤもその準備のための存在と言えます。

 

 その後、イエス様と共に弟子たちは山を下りました。新しい時代は、イエス様が山を下りるところから始まるのです。しかしイエス様は、輝かしい姿から、再びいつもの貧しい姿に戻りました。私たちの、信仰生活も同じです。新しい信仰に基づいた生活が始まるときにも、ごく普通の日常生活の中で、高ぶらずに、淡々と歩む。そうありたいものです。

 

 ペトロは山の上で、モーセとエリヤとイエス様が一緒にいるところを見て、『先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。』と言ってしまいます。

 ペトロにとって、目の前にモーセとエリヤが現れたことは、想像できないほどすごいことだったのです。「仮小屋を建てましょう」と言ったのは、驚くべき光景に、はしゃいだのでしょうか?良く考えずに言った言葉です。 しかし、モーセもエリヤも預言者ですから、神様に仕える者でしかありません。神様以外を仮小屋とは言っても礼拝しようとは、とんでもない事です。そこで、神様の声が聞こえます。

『これはわたしの愛する子、これに聞け』

この言葉の通り、イエス様だけを信じ、礼拝すべきなのです。

ここで出てくる「聞け」という言葉には、「聞いて従え」という意味があります。つまり、言葉として耳で聞くだけではなく、イエス様の後ろについて、従いなさいということであります。

 

 イエス様が山を下る歩みは、これから起こる十字架の出来事を背負った歩みです。ペトロをはじめとする弟子たちも、やがてイエス様と同様、迫害の中を歩みました。それぞれがイエス様がそうしたように、「キリストの十字架」を担って歩んだのです。私たちもまた、それぞれの十字架を担っています。それは、神様から与えられた、私たちの担っている役割です。職場にあって、家庭にあって、そして教会にあって、私たちはイエス様から役割を頂いています。役割を頂いていない人など居ません。イエス様は、それぞれに役割を与えて、イエス様の業のために用いてくださっているからです。そして、イエス様は私たちに寄り添って下さいます。ですから、十字架を担うことは、辛いならイエス様に愚痴を言えばよいのです。しかし、本当のところ、担ぐのがつらいと思っている自分の十字架は、イエス様が担いでいるのだなぁ と思います。私たちは、そのことに気づかずに、自分だけで重荷を負っていると思い込んでいるのです。イエス様は、私の十字架の重さのほとんどを担ぎながら、黙ってその成果を私たちに譲ってくださる方なのであります。

 

 さて、ペトロたちが目の当たりにした山の上での出来事は、キリストが再び来られる終わりの日の姿と思われます。イエス様の服がとてつもなく輝いていたというのは、ペトロたちが見たイエス様は、救い主、裁き主、世界の王となられた姿でした。そのイエス様の栄光は、神様の御心に従って、私たちに示されます。ペトロたちがその人生のなかで、十字架を担って歩み続けることができたのは、神様の御心によってイエス様の栄光が共におられたからです。

 日々イエス様が共にいてくださり、「従いなさい」と私たちを導いてくださいます。そして、祈りのうちにイエス様に聞き従い応答する。このことによって、私たちの上にもイエス様の栄光が示されるのです。イエス様は、私たちの祈りに答えて歩む道を示してくださいます。そして、十字架の重荷のほとんどは、イエス様が担い続けます。ですから私たちはそれぞれの十字架を背負って歩むことが出来るのです。

 

 イエス様は受難の時、ぼろぼろになり、この上なく惨めな姿で十字架の上で死にました。それは、栄光の姿とはまったく正反対に見えます。しかし、キリストであるイエス様がその惨めな姿で十字架にかかってくださったゆえに私たちは、罪が贖われ、イエス様の栄光に与ることが出来るのです。そして、イエス様の後ろに従って歩むことがゆるされているのです。とても、とてもイエス様に近づくことができない「罪人」である私たちですが、イエス様は共に歩んでくださるのです。そして、まだ今も、そして将来も私たちの十字架を担ってくださいます。このイエス様に感謝いたしましょう。